他人の感覚が分からないから

相手の気持ちを伝えられるのが苦手

嫌われたい訳では無いけれど

好かれるのも苦手だから

まさに愛されるより愛したい


そもそも愛なんてものは

愛する事であって

愛される事では無い

愛さなければ何も始まらないし

愛されたって

迷惑に感じることのほうが多い


自分が誰にも愛されないのは

そんな願い事をした事が無いからだし

愛されていたとしても

それを受け容れられない


愛し方は人それぞれだから

ずっと一緒に過ごしたいとか

一つになりたいなんて

まったく意味が分からない


言葉を発したり会話をする時に

誰かを求めないから

わざわざ連絡をして日時を決め

その日のその時間

どこそこでお茶しようとか

一緒に呑んだくれようなんて

面倒臭くて仕方ない


喋りたければ

河原にでも行って一人で喋ればそれで良い


一人暮らしを手放せないのは

便利で仕方ないからだ

休日なんて一日中喋り倒せる

疲れたら音楽を聴いたり

映画を観たり家事をしたり

掃除なんてやりながらまだ喋ってる

歌いながら踊る時すらある始末


子供の頃に野球をしていたけれど

キャッチボールが苦手だった

壁にボールをぶつけて戻って来たボールを

また壁に投げるほうがラクだった

だってちょっと相手が取れないところに

ボールを投げたらと思うと

落ち着かないじゃない


「どこ投げてんだよ」とか怒られたり

走って取りに行く後ろ姿を見てると

申し訳ない気持ちになるし

「しょうがないなぁ」なんて笑っていても

影では何を言われているかなんて分からない


ずっと自分に嘘をついて来たから

他人も同じだと思い込んで信じないようにしている

裏切られた時の痛みなんてもう要らない


自己完結を選んでいるのは

やっぱり臆病だからなんだろうけれど

そのリスクを背負ってまでも

手に入れたいものなんてあるだろうか

物足りないとは思いつつも

安心安全な選択をするのも悪くは無い


なにも自分で

ストレスを作る必要なんてない

自然の流れに乗れば良い

心のままに選べば良い




ここ数年間

いやもう10年以上かもしれない

自分の心の流れを

遡るという旅をして来た

それを思い立ったのは

それまでの理想を手に入れて

この先にはもう

これ以上は無いと感じたからだ


要するに物足りなかった

何が足りないのかは分からないけれど

とにかく何かが足りなかった


自己完結を選び始めた

原因はなんだろうという疑問が浮かんで

自問を繰り返しても

何の答えも返って来なかった

いつもはあちらとこちらで

話していれば当たり前に答えが

返って来るのに

なぜかその答えは返って来ないから

仕方なく心の中を探すことにした


物心がつく前の自分と出会うまでにも

いろんな自分がいたけれど

初めの頃は再会を果たすたびに

同じ答えを持っていたのに

実家で暮らしていた頃の自分と向かい合った辺りで

それまで頑なに隠し通していた感情を

意識出来るようになってから

これ以上先はないと感じていた壁の向こう側での

感覚の存在を思い知らされた


その根源的な感覚や感情を

なかなか受け入れられなかったけれど

実際にその頃過ごしていたであろう

場所で過ごしてみると

その頃の好奇心が

声を掛けてくれた気がした


その子供の感情や感覚は

確かに自分の中にあったもので

その後の現実に覆い隠されて

無かったことにして来た気持ちだった


その気持ちが物足りなさの原因で

行き止まりの壁にもしっかりと扉がついていて

答えはその先にあるかもしれないと

ここ数年ずっと思っているのに

確かめることが出来ない


あんなに高くて厚い壁に

扉を作れたのだから

もうやるべき事は一つしかないのに

足がすくんで動けない