中学三年生の時の三者面談で
始めて成績がランク分けされているのを知った
Jランクと言われ
それがなんなのか分からないから
先生に説明してもらうと
高校受験の時にある程度
成績に応じて受験出来る高校のランクが
決まっていて
大抵はFランクくらいまでしか
受け付けないみたいな話をされた
要するにAランクから数えて
Jランクとなればもう受験出来る高校がない
そう先生に言われて
なんで1年生や2年生の時に
教えてくれなかったと思った
受験先を決める進路相談で
それを言われても
もうどうしようもない
この成績では
定員割れしている地元の高校も
受験出来ないと言わだけれど
なぜか後日
受験出来るようになった
いろんな人のいろんな思惑が
重なり合ったおかげで見事に合格する始末
うろ覚えだけれど
公立校の試験の解答を
テレビで放送していたのか
自己採点したら全ての教科の点数が
一桁だったから
間違いなく落ちたと確信していたのに
なぜか合格
この成功体験が
後々の人生を奈落の底へと誘って行く事になる
幼稚園や保育園を卒園すると
小学校へ行き
そこも卒業すると中学校へ行く
そういうものだと思い込み
皆が高校へ行くから
自分も行くのだと思っていた
それまでの過程で
進学するための努力なんてしたことが無い
ただ行く場所が何年か毎に
変わるというだけの話だった
テストの点数がセロじゃ無ければ
合格なのか
地元町民は無条件合格なのかは
知らないが何もしないまま
高校も卒業してしまった
卒業間際に始めて両親に
高校を卒業したらどうするのかと
尋ねられて
それを自分が決めるのかと驚く始末
自分がしたくてそうして来た訳では無いから
自分で決めるという感覚がないから
どうすれば良いのか分からなかった
2歳を過ぎた頃に
母親に連れられて生まれた家を出た
叔母一家のアパートへ転がり込み
母親の友人の家へ引っ越して
しばらくしてから
なぜか叔母一家の近所に
アパートを借りて住み始めた
2年ほど暮らして
今度は北海道の山と畑に囲まれた
里山へ母親が嫁ぎ
そこの家の養子になった
比較的都会の
雪の降らない住宅街で
育った子供に里山暮らしは
ファンタジーで
もう40年以上も雪の降り積もる季節を
繰り返しているのに
未だに初雪や初積雪の朝
カーテンを開けて雪景色を見ると
感激してしまう始末
一緒に暮らす人も
暮らす場所も幼い時に
コロコロ変わっていたから
そういうものなんだと思っていた
幼稚園から保育園
小学校の次は中学、高校と続く
大学は勉強好きが行く場所だから
自分には関係ない
だから高校の次は
どこへ行くのかとドキドキしていた
自分で決めるという選択肢がないから
電車に乗って次の駅は
どんな場所なのかと思うくらいにしか
考えていなかった
ただ勝手に進むものだと思っていた
確かに高校三年になると
自衛隊の職員が来て
入隊を勧められたから
そうか今度は自衛隊という場所へ
行くのだと思っていたら
当時のクラスメイトに
札幌の専門学校に行こうと誘われて
始めて2つの選択肢に挟まれて
決断を迫られた
始めは決めるとは
どうすれば良いのかが分からなかった
それまでの過程でした事がないから
ただただオロオロして
自衛隊の職員に
見学に来ないかと言われ
自衛隊の施設へ行って見ると
敷地の中をランニングしてる隊員を見て
なんか部活の延長みたいだと思った
高校の3年間は野球部で
理由の分からない上下関係や
まるでヤクザのような
体育教師の監督の下で
まったく楽しくない時間を過ごしたから
自衛隊には行きたくないと
始めて自分の感覚で専門学校へ行くという
未来を選択をした
就職と進学では
お金の流れが逆になるから
母親は反対していたけれど
自分でも驚く程
一度決めるとその決断を
変えるという選択肢はなくなって
あんなにも恐ろしかった両親に
まさに命懸けで
殴られようが殺されようが
決断は変えないという意志が働き
決死の挑戦の末に進学を勝ち取った
この成功体験も後々
奈落の底へ誘う事になる
なぜなら決断をする事は
命懸けなんだという思い込みが
生まれたからだ
自分で決めた事は死んでも
貫かなければならない
そんな感覚に縛られて
どんなにつまらない決断も
決して妥協しないという
意固地な人生を歩む切っ掛けになってしまった
一人暮らしをして
その快適さの虜になり
友人知人は全て捨て去った
自分の事を誰も知らない
都会の片隅で暮らす気楽さに
酔いしれた
冬の里山は一面の銀世界
山も畑もみんな白と影
誰もいない雪山をソリで滑り降りる
学校の校庭に作られたスケートリンクで
ひたすらスケートを滑る
ずっと一人だった
それが当たり前だった
話し相手なんて誰もいないから
ずっと独り言を話していた
そのうち心の中にもう一人生まれ
まるで会話のように話すのが
習慣になったおかげで
他の誰かと話すのが苦手になった
独り言はあちらもこちらも
自分だから言葉が足りなくても
感覚共有しているから説明がいらない
自分にある感覚とない感覚も
ぴったり同じだから違和感がない
それに慣れてしまうと
感覚が共有出来ない言葉を聞くと
気持ち悪くて
分からないから聞くと
相手の話しの腰を折ってしまうし
面倒くさい
変わった家庭環境で
都会から田舎へ移住するという人も
周りに居なかったし
入学した小学校には
同級生すらいなかったから
自分には分からない事のほうが多くて
結局ひとりのほうが楽だから
すぐに逃げ込んでしまう
そんな性格で何の能力も持たずに
誰の助けも無く暮らすには
氷河期はなかなか大変な時代だった
どこへ行っても
感覚を共有出来る人はいないから
とにかく合わせるしかない
我慢の連続でテレビでも
そう言っているしそうするしかないと
思い込んでいた
始めは数年続けられた我慢も
年々その期間が短くなって
このままでは危ないと感じる事で
我慢のやり方を変えた
その場に留まる我慢を止めて
嫌なら離れるリスクを取るようにした
ほんとにキレるという言葉が
しっかり当てはまるくらい
限界が来ると爆発した
相談相手はいないし
情報源はテレビしかないから
それを真似しても上手くいかない
そりゃそうだ
フィクションを現実で真似たら
ただの痛い奴だから
今にして思うとそうなんだけれど
当時は大真面目にやり続けていた
学校で教わった嘘をつかないという
道徳観念が職場では邪魔でしかなかったけれど
テレビドラマではそんな主人公が
描かれているからそれを真似ると
いろんな人に仕事を押し付けられて
キャバオーバーでノックダウン
泥沼で全力疾走しても
前には進まないし長くも走れない
それでも克服するしかない
そう思い込んで
無理ゲーをひたすらやり続けていた
そんな人生しか知らないから
そうやって進む事しか知らないから
まだ死ぬ訳にはいかないと
自分で決めたから
生きる事しか考えられなかった
頭が悪くて無能で
誰とも感覚を共有出来なくて
でも孤独は嫌いじゃない
ずっとそうだったし
心の自分はいつも寄り添ってくれていたから
寂しくは無かった
とにかく出来ることするしかない
そうやって生きて来た自分の
辿った道のりを振り返るのが好きだ
そうすることであの時の自分が
一人じゃ無くなる
もっと他人に合わせれば
楽になるかもしれない
恨みや怒りを捨てて受け容れてしまえば
協力してくれる人がいたかもしれない
けれどもあの時に感じた痛みや思いは
身体の中に刻まれて今も確かに存在している
どの瞬間の自分も無くしたくない
裏切りたくない
記憶には残らなくても
身体は覚えている
楽しさも悔しさも悲しみも喜びも
痛みや怖さもどれもみんな自分が感じた
大切な感覚なんだ
家族の中に居てもひとりだった
それが当たり前でそれしか知らない
自分以外と共有する事は出来ない
過去の喜怒哀楽をなくしてしまったら
もう一人の居場所がなくなってしまう