小学3年生のある日

いつものように車で一時間ほどの

街まで買い物に出掛けた時に

父親がいつもは止まらない町はずれの

道路脇に車を止めた


田舎だから

そこらで用足しでもすのかと思っていたら

運転席と助手席に座る両親が

後部座席に座っていた私の方を振り返り

「お父さんとお母さんは離婚する」と告げた

母親はひとまず実家にでも戻ると

話していたかは覚えていないけれど

ひとまず北海道からは

離れるというような感じだったと思う

「お父さんとお母さんどちらと暮らしたい?」と

聞かれた時に

母親の連れ子として養子になったのに

離婚されたら残る意味ないんじゃないかと

幼心に思っただけれど

選択権を与えられたから

しっかりと考えてみた


入学した小学校は全校生徒が12人という

信じなれないような学校で

2年生の修了をもって廃校となり

3年生からは近くの小学校へ転校させられた

離婚の話を聞かされたのが

おそらくその年の冬だったと思う

その頃ようやくクラスにも慣れた頃で

またあんな気まずい思いはしたくないという事で

私は父親と暮らす事を選んだ


その決断が両親としては

予想外だったらしく

あれだけ毎日喧嘩を繰り返していた

二人が協力して

幼い私を説得している姿を見ていると

変わった人達だと思った


そこに至るまで家庭内での

数多の喧嘩を見てきたから

正直もう別れたほうが良いとは

思っていた

九州育ちの母親は慣れない環境のせいか

よく体調を崩したりして入院をしていたから

母親のいない生活にも慣れていたし

何より父親も喧嘩する相手がいないから

家の中も穏やかで過ごしやすかったから

また別の環境へ行くくらいなら

このままのほうが気楽だと思って決断した


その時は自分でも

それほど深くは考えていなかった

母親がいなくても困りはしない

むしろ平和になるならそれで良いと

思っていた


話を聞いた時に

このまま家を出ると言うので

なおさら心の準備も

出来ていなかったから

頑なに両親の説得にも耳を貸さず

やがて母親は車を降りた


車が走り出して

窓から母親の姿が見えなくなるまで

ずっと見つめていた

もう二度と会わないのかと思ったら

涙が溢れてきた


その姿を見て

父親は尚も説得してきた

「お母さんのところへ行け」と

家に着くまで何度も言われ続けた

1時間くらいの間

ずっとそう言われては続けると

今度は

「この人は自分と暮らしたくないのではないか?」

と心配になってきて

確かに連れ子だけを育てるのも変な話だとか

もう頭の中がゴチャゴチャになって

逆に心は落ち着きを取り戻したけれど

涙だけは止まらなかった


もう悲しくもなく

何の高ぶりもないのに涙が止まらない

父親はそんな姿の私を説得し続けるから

早く泣き止みたいのに涙が止まらない

もう家につく頃には

そんな自分が面白くなってしまった


家に着いてからも

涙は戻らず

祖父母や近所の親戚の人からも

何でこの子がいるのと聞かれた父親が

困り顔で説明しているのを見て

面白い反面

やっぱりここに居てはいけないのだと

思うと余計に涙が溢れてくる始末


幼心に

どちらと暮らすかの選択権を与えておいて

予想外の答えだからといって

後になって文句を言うくらいなら

始めから母親が連れて行けば良かったのにと

泣きながら思っていた

夕食を食べても

風呂に入っても

涙は止まらなかった


そろそろ寝ましょうと

布団に入る頃

母親が友人に連れられて

家に戻って来た


おそらく人生で一番

重い決断を下したのに

その日の内に戻って

その後時が経つに連れて

何事も無かったかのように

周りの人達は

何も言わなくなったけれど

あの日

母親を捨てるという決断は

確かに下したし

父親や他の家族の

「何であの子を育てなきゃなんないの?」という

言葉も聞いてしまったから

気持ちの上で誰も味方がいなくなってしまった


たった数時間

離れただけなのに

あの日以来

私の中で母親は

身内ではなくなった

何度もそんな自分の事を

責めたけれど

あの日下した決断は本物で

しっかりと覚悟を決めて

下した事を今更ながら

思い知らされている


気持ちは晴れても

涙が止まらないなんて事は

後にも先にもこの一回きり

逆に覚悟が決まると

自分でもどうしようもない

決断とはそういうものなんだろう

だからあえてそれ以降

自分で決める事から逃げ続けたのかもしれない


青天の霹靂で

難しい決断を即座に

求められるのは

大変だから

今も気楽さを求めては続けている