どうやら嫌いなのは
人ではなくて
過去の嫌な体験だったらしい
今まで人付き合いが苦手だと
思い込んでいたけれど
それは幼い頃の家族体験が
あまりにも面倒で怖くて
あんな思いは二度としたくないという
自分の願いを無意識に
叶える選択をしていたから
嫌いだと思いこんでいた
そもそも一人であれば
喧嘩をすることも無いし
襲われる心配もない
だからできなかった事が
出来るようになる事が
必須だった
ただひたすら一人になる為に
頑張って来た
大概のことは我慢すれば何とかなった
家族という重苦しい世界に比べれば
低賃金でも支払って貰えて
暮らせることが何よりのご褒美だった
その当時は納得がいかなかったり
腹が立つことも多かっただけれど
何故そこから出ようと思わなかったのかと言えば
勿論知らない場所への恐怖もあったけれど
そこでの幸福感があったからだ
運が良いとさえ思っていた
時を重ねれば重ねるほど
小学校の先生が教えてくれた感覚で
暮らせるようになっていった
ルールは守るもの
人には優しく
嘘はつかないなどなど
幼い頃よく聞いたセリフ
「学校の勉強なんて、社会に出たら役に立たない」
だったらやらなくて良いじゃん
そう思って投げ出した罪を背負いながらも
社会の恩赦を受けながら暮らせていたあの日々に
今は感謝すらしている
これまでから今まで
そしてこれからも
ずっと繋がっていて
積み重ねて生きている
出会わなければ
知りようがないから
分からないまま
幼い頃に愛する事をしなかったり
学ぶ事を怠ったり
簡単に投げたしてちゃらんぽらんに
過ごした現象は消えない
知っているのと知らないのとでは
まったく違う選択肢にしか出会えない
それ自体には良いも悪いもなくて
ただそれが事実だって事
改めて人生を振り返ると
ずっと孤独になる努力をしていた
そのために必要な努力を
積み重ねて生きてきた
人口よりも家畜のほうが多い
そんな地方で育ったせいなのか
家畜と自分の境界が曖昧で
罵声を浴びたり
時には暴力を振るわれた時に
あまり動じない
動じているように見えない家畜に
憧れてしまった
家畜に感情移入しすぎて
人は危険な存在だと思い込んでいた
人が家畜に
暴力や暴言を浴びせる度に
怒りと痛みに襲われた
その時の共感が
より一層人に対する恐怖心を強くした
理解出来ないから
相手が感情的になっているのか
躾なのかも分からない
ただ大声で怒鳴られたり
叩かれたりするのが嫌で
ずっと距離を取っていないと怖かった
だから人には近づかない
無意識に人を避けていたのは
その体験からだろう
でも面白いのは
近づかないけれど
繋がりは欲しいみたいで
だからSNSに投稿したりしている
結局
馴れ馴れしくされるのは嫌いだけれど
遠く離れた誰かと
繋がっていればそれで良いのかもしれない