人生は有限だ

そんな事分かっている

つもりでいるけれど

終わりとはいつなんだろう

死ねば終わりなんだろうか

死後も自我が残ったりは

しないのだろうか

もしかすると

自我は永遠なのかもしれないとは

なぜ思わないのだろう


前例がないから

証拠が無いから

ないと思いこんでいるだけで

実際に死んでみたら

セカンドシーズンが始まる

なんてことがあったとしたら

どうだろう


嬉しいだろうか

悲しいだろうか


結局のところ

その時点で何かしらの良い事が

あれば嬉しくて

反対なら悲しいだけ


そう考えると

人生を有限だと意識する人は

今が幸せで

意識しない人は

幸せではないのだろうか


私は

どう思っているだろう


そもそも

終わりはいっぺんには来ない

幼少期から青年期までは

体力が右肩上がりで

少しくらいサボっても

数年後にでも取り返しが効くけれど

いわゆる中年世代になると

そんな感覚ではいられない

そう意識した時にはもう

肉体の成長は終わりを告げている

まさに今がその年齢だけれど

終わった事には気付けなかった


アスリートを例に上げると

それまでの感覚でトレーニングを

続けてしまうと体が悲鳴を上げて

怪我をするみたいな事だろうか

ずば抜けた選手も

肉体の限界を超えた

トレーニングやパフォーマンスで

選手生命が奪われる


知的労働者はどうなんだろう

周りから見れば

老年期でも有能だと思われていても

自身では衰えを感じでいるのだろうか

それともそんな感覚は

ないのだろうか


組織の中で仕事をしていると

昇進する度に部下が増えて

その部下が有能で

逆に若い頃よりも自分が

有能に思える事もあるかもしれない

コミュニケーション能力が

求められるのは

まさにその成功例からの発想で

一代で財を成すなんて人は

死ぬまで右肩上がりに

成長しているように思えるかもしれない


そう考えると確かに

終わりは死ぬ事しかない


実際多くのお金持ちが

SNSで発信をしているけれど

彼等はその発信でも

利益を得ている

もう働くという感覚が

まったく違って

勝手にお金が儲かるシステムだから

呼吸をするように利益を上げる


私は清掃員をしているけれど

周りのパート従業員は

意外とお金持ちが多い

生活に困ってはいないという意味では

彼等もまたお金持ちだ

そんな彼等も

なぜ働くのかと聞けば

1日中家にいると

気が狂いそうになると言う人や

呆け防止に働くという人が案外多い


お掃除好きの高齢者は

家に人がいないから

部屋の中があまり汚れない

汚くもない部屋の掃除をするのは

面白くないから働くと言う

そんな理由で

三十年や四十年働き続け

八十歳を越えても

雇われ続ける人もザラに居る


中には体は動かないけれど

口だけ達者な人もいるけれど

そんな人も職場に来るという事が

心の支えになっていて

流石に退職をしなければならなくなって

辞めた途端に亡くなる人もいた


あの世代になると雇用契約の期間が

数が月単位になる会社もあるけれど

あの契約書にサインする時には

どんな気持ちになるのだろうと

思いながら書類を差し出す時に

息苦しさを感じるのはなぜだろう


自分にもこんな未来が

来るという思いがあるのだろうか


その未来も

まだ数十年先だと思うと

この今の日常が永遠に

感じてしまう


嫌悪感はないけれど

むしろこの毎日が

いつかはなくなるという不安が大きい

だから失いたくないのだと思う

むしろ永遠にこの生活がしたい

それは意志というより

これまでの体験から来る

予想かもしれない


いつもそうだったから

これからもそうだろうという思い込み


人生のどこを切り取っても

その後がなかった経験がないから

終わりを意識できない

だからどこかこの現実は

永遠に続くものだと思っている

そしていつも終わった事には

気付けない