今日の仕事の最中にふとそんなことを考えたTKCです。

仲間の定義…。

一概に、答えなんてないと考えています。

なぜかといえば、育った環境や過ごしてきた人生観より多種多様だからです。

要は個人が勝手に決めているものというわけです。

しかし虎だと争いに発展しかねないので学校仲間には学校仲間のルールを、仕事仲間には仕事仲間のルールを定義しておかなければ収拾がつかないのです。

定義に反して自分の意見や性格を出しすぎると、仲間外れにいずれなりますよね。

そんな定義ですが、やはりグレーな部分も多いのです。

定義というのは平等や均衡を形作るものではありません。

ある一定の範囲内で形を変えながらも収拾がついているのが定義です。

腕力の強い人、発言力の強い人、思考速度の強い人などいろいろな人が集まって仲間です。

そのいろいろな力を巧みに統率取れる人がリーダーなのです。

話を戻して、そんないろいろな個の力の中に、性格という自分ルールを交えてしまうと崩れ始めてしまいます。

一瞬だったり、長期的だったり、目に見える形だったり、見えない形だったり、状況によっていろいろです。

定義の中で仲間活動をしている以上、ある程度は自分を殺さなければいけません。

それができない人は、結局何歳になっても子供のままなんですよね。

そういう人の特徴って、好き嫌いで話し方を変えたり、今の定義の中で自分より弱そうな人に怒りをぶつけてみたりとわかりやすかったりします。

線香花火のようにきれいならいいのですが、酷く醜いです。

そして、私恨が残り続けていることにも気づけないでいる場合が多いです。

かといって、言いたいことも言えないじゃないかとか我慢しかできないじゃないかと言われそうですが、オイラ的には言いたいことは言えばいいし我慢もしなくてもいいと考えます。

ただし、これから発しようとしている言葉や口調の強弱に責任を持てということです。

それが、先に挙げたような感情も交じってくるものととらえることができるのなら最悪だということです。

すでに仲間の定義からは謀反を起こしている癌ということです。

仲間の定義というのはこれから何世紀もたってもの定まらないのでしょうね。

全ての仲間に共通する絶対的な定義を発見し何一つ不純なく継続施行できたのならノーベル賞ものだと思います。

とまぁ、最近のニュースや知人から聞いた話を総括しつつ、仕事中にそんなことを考えていたTKCでした。

あくまでも個人的な気の場限りかつ今日限りの考え方なのでご容赦をm(__)m