私はNVC(共感コミュニケーション)を学んでいるのですが、

マウイ在住の認定トレーナーがご夫婦で

月に一回無料で学びの場を開催してくださっています。

 

前回は11月25日(アメリカ西海岸の24日)に開催され、

11月頭にメルボルンで参加したWSで知り合いになった

NVC歴10年の人も毎回参加しているので

NVCの学びを通して知り合った人とのキャッチアップ、

交流の場にもなっています。

 

前回は、アメリカでは感謝祭の前だったこともあり

「感謝のワーク照れ」をしましょう、ということで

やったワークがこれ下差し(文章の最後に載せます)。

 

私は「共感カフェを通しての感謝」について話したのですが、

ちょうど一緒に組んだ人のうちの1人の感謝が

「電話やオンラインでの共感サークルグループを立ち上げた

けど、いろいろあってやめた、やめた後に感謝の言葉を

伝えてくれた人がいてそれがありがたい」というもので、

話し終わった後「遠く離れて共感カフェを始めたあなたと

今日つながったのもなにかのご縁だから、なにか質問が

あったらいつでもメールして。ノウハウをブログに書いてあるから

ブログも覗いてみて」と教えてくれました。

 

感謝のワークをやっている中にも感謝がドキドキ

参加してよかった合格クラッカー

 

さて、これを読んでくださったあなたにも感謝の恩送り~ラブラブ

 

これを30日間1日3回やると、

自分がしたことが自分を幸せにしていることがわかり、

実感できるため幸せ度が10%上がるそうです♡(なに比だろう?笑)

 

 

ホリディシーズンに最適【思いやりや感謝の循環のワーク】

(giving and receiving compassion/gratitude)

 

恩送り、共有、貢献など(pay forward/contributed/contribution/sharing)

 

ドキドキ  ワークのやり方:①~④を書き留める。

① 誰かがしてくれたことで感謝していること

Something that someone did for you that made your life more wonderful.

 

 

 

 

 

 

② その時満たされた「ニーズ」(ニーズに関してはこちら

What need was satisfied when this happened?

 

 

 

 

 

③ ①を思い出して「今」どんな気持ち?

When you think about this, how do you feel right now?

 

 

 

 

 

④ ①のために自分がしたことは?(その場所に行った、など)

What did you do that helped to make this gift possible?

昨日アップした記事「NVCとアルジャーノンに花束を」

で書いた「謝ること」を考えていたら、

いい人になりたがる心理と同じかな、と思ったので

これもアウトプット!

謝るのは誰のため?という話があって、

謝るのは、悪かった、ということを表現したいのと、

謝ることで許されたい、という目的がある、とすると、

どちらも謝る人の都合で会って、謝られる人のことは

考えていないよね?っていう説があって、

それにも一理あると思ってる。

 

謝ることが文化的に組み込まれているから、

悪いと思っているなら謝れよ、的に

謝られるとスッキリする、自分は悪くなかったよね、を

確認する人もいるんだろうけど、

そして私にもそういうところはあるし、

私が謝るときに、相手の気持ちを軽くしたい
(悲しんでいたり怒っていたらそれを軽減したい)

という気持ちもあるけど、謝ることで

仲直りしたいんだよね、どっちも、きっと。

 

いい人になるのは、自分はいい人だと思いたい、

好かれたい、空であって、相手のためではない、という説もあって、

これも同じく一理あると思っているけど、

上の「謝る」と同じくらい、

いい人、って都合がいいとか、ちょうどいい、とか

とにかく本人以外にもいいことがある状態だとすると、

恩恵を受けるわけで、

本来は行為者その人だけのものではあるけれど、

周りもありがとう~、という人がいる可能性があるとすると、

やっぱりつながりに一役買っている気がする。

 

だから、人の行為はまずはその行為者が何かを得る

ためにやっていること、なんだけど、それだけとも限らない、ってのが

なんだかややこしい。

 

これは、それだけとも限らない、ことになっている

文化を知っているからなのかな。

 

多分にそういうところはあるんだろうなぁ。

最近、NVCのことを考えていると「アルジャーノンに花束を」のことを考えちゃうことが多いのですが、

今日もオンラインで開催されたNVCの学びの会でまた考えちゃいました。

 

今日は、参加者の一人が

「『NVCでは謝らない』だよね~、やっぱり」

と言ったことから、NVCでは謝らないって?

が始まりました。

 

NVCだけでなく心理学的に、

その人の感情はその人のもの。

 

「馬を水辺に連れていくことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」

ということわざがあるそうですが、

誰かを怒らせようとしても毎回確実に怒らせることに成功するとは限らないし、

喜ばせようとしても同じこと。

 

そして、同じ出来事が起こっても反応は人それぞれ異なります。

 

それを「その人の感情はその人のもの」と表現しています。

 

そして、感情はその人の内側から湧いてくるものなので、

内側が変わらないと感情=反応も変わらないことから、

どんな出来事が刺激になったとしても、

それに対する反応はその人が「選べる」のだから、

その出来事(刺激)が別の人の言動だとして、

ある人が悲しんだり怒ったりしても、それはその人の問題なので、

別の人は謝らない、謝っても仕方がないし、謝る必要もない、という

説明でした。

 

私はこれを聞きながら、

「ボコボコに殴ってくる人がいても、

それは痛みを感じている人の問題なのだろうか?」

という疑問がわいていたのですが、それに関しても、

「IIT(国際合宿)がラスベガスで開催されていた時に、

集団銃殺事件が起こったことがあった。

その時、あるトレーナー(Robertと言っていましたが姓はわからず)が、

撃ったことは起こらなければよかったことだといえるが、

撃ったことで撃たれた人の身内、その報道を聞いた人の中で

生じたことはそれぞれの人の問題であって、撃った人とは別に考える必要がある」

と言ったそうです。

 

確かに、どういう感情が起こるかはそれぞれによるので

説明的にはなるほど、です。

 

そこでまた冒頭の「謝らない」にもどって、

言い出した人とは別の人(B)が、

「とはいえ、私たちはNVCじゃない世界に住んでいる/たことのほうが長いから、

そうじゃない文化を引きづっている。ある状況下で自然な気持ちとして

謝りたくなったら、NVC的ではない、と我慢するよりも

自分のニーズにつながって謝るのが逆説的ではあるもののNVC的なのではなかろうか」

と言い、

 

それを受けた最初の人(A)が、

「言っていることはわかるけど、僕が言っているのは、

『NVCだけで世界は回るのか』ということで、いまのところ

『回らない。特に集団には弱い』ということと、

『NVCは謝らない』と思っている。

 

と答え、Bさんが「集団だと回らないのは私も感じている」と返し、

「NVCは謝らない」に関しては平行線なのでウーム、という感じになった。

 

私もここでウーム、と思いつつ、比較しているものが違うんじゃないかと思った。

 

Aさんは100%NVCでいけるかどうか、を話していて

Bさんは今の文化の中でのNVCを話していたような気がしていて、

私はそこにC案、つまり全員がNVCを知っていて、現在の文化が廃れていたら、

NVCは100%で行けるのか、いけないのか、そもそもそれは可能なのか、というのが

あるんじゃないかな、と思っていた。

 

多分、マーシャルが目指しているのはBとCの間で、できるだけCに近づける、

もちろん可能であればC案、なんじゃないかなぁ、と思っている。

 

私は、いまは「めざす」だけど、そのうちNVCが当たり前になったら100%になれるのかも?

と楽観的な希望を持っている。

全員が自己共感がある程度できていて(80%とか?90%とか?)

共感のチャージ(充電)が足りていれば、

他者共感もしやすいだろうし、お互いのニーズを満たすことを

お互いが目指していて、そんな人ばかりだったら、かなりいいところにいける、

かなりいいところどころか、理想郷が成立するのかも、とも思ったり。

 

ここで「アルジャーノンに花束を」がでてくる。

 

私が最近考えているのは、

「NVCでは8000年前は、今のような支配階級や貯蓄する、

だれがたくさん持っていてだれの資産が少なくて、

ということがなく、もっと厳しい生存状況だったかも

知れないけれど、少なくとも助け合わないと生きていけないので

人々はほかの人と調和の中に生きていたのではないか、

という考えを持っている(んじゃないか、と私は思っている。

私が今まで読んだNVC本にはそこまで明言されているわけではない)。

 

これがアルジャーノンの最初のIQが低い状態だとすると、

今はIQは高くなったけど生きにくい状態で、

幸福度も低くなって辛いので、

元に戻りたい、と言っている状態。

 

IQなんか高くなくていい、

便利じゃなくても効率的じゃなくても、

いつでも食物に困らない、という状態にならなくても、

人々が調和の中に暮らしていたあの頃に戻りたい。

 

そして、アルジャーノンが元の状態に戻った時、

周りの人はこれでよかったのか、と思う。

 

いま私はNVCを学んでいる途中なので、

時々この「知らなかったら幸せだったんじゃないか」

みたいなことを考える。

アルジャーノンの場合でいったらIQが天才レベルになったとき、

一種のピークの時かな、と思う。

 

どちらも見えて、どっちが幸せか、を考えた時に、

ピュア度が上がる、というか、純粋、自然、本物である、みたいなのの

度合いが増える状態、つまりアルジャーノンのIQが低い状態、

(NVCの純度が高い状態)が幸せなんじゃないか、と気づいて、

だんだん物質社会ではなくなり、

人口も減ったりして、8000年前の状態、

あるものを食べて、共有して、分け合う文化に戻る。」

なんだけど、今日の話で言ったら、

 

NVCが「集団で回らない」だったり、

「謝らない」とわざわざ言うのは、

まだアルジャーノンのIQが高いままだからで、

IQが低い状態、つまりNVC人口が増えたら、

回るんじゃないか、と思ったり。

 

どうなんでしょうね~。

 

こればっかりは答えがわかるほど長生きしないと思うので、

まったくの机上の論なのですが、

最近よくアルジャーノンのことを考える機会があるなぁ、と

思ったのでここらでアウトプットしておこうと思って書き記しました。

先週マイヒスマイプロをやった時にもそうそう、と思って、週末運転中も思ったんだけど、大きなことをしようと思ったら足元の一歩から👟

 

そして、大きいことをやろうと思わずに足元の一歩から始めても、その一歩が自分がやりたいことで自分のハートとつながっていたら、歩いているうちに目的地が見つかる🗺 

あ、あそこに見える山、登ってみたいな、とか、あの建物気になる、入ってみよう、とか。

 

私の場合は、リスママのリスナーになろうと思ったわけじゃないけど、友人の相談を上手に受けたい、と思ってブライトリスニングを学ぼうと思った。そしたら、オンラインで受けられるのはリスナー養成講座だったので、まぁリスナーもやってもいいか、と思って受講→「聴く」と「NVC」にはまってリスナーを嬉々としてやっている。(ただし諸事情あって、これを何らかの形で仕事にするつもりで最初からかなり習得する気満々で真剣に受講していた)

 

そして、リスママが目指すところが「世界平和」って言われて、「大きすぎてよくわからないけど、へ~」って感じだったのが、今では「世界平和」以外に何を目指す?という気持ちにもなっている😁

 

自分がハッピーで周りもハッピーになったら&そういう人が最初は点でいるんだけど、どんどん増えていって重なる部分が増えたら、気づいたら全員ハッピーになっている、そうしたらそれって世界平和ってことか?ということに気づいたら、それやれそうだし、それに向かおう!という目標ができた、という感じ。

 

自分が自分の中にいるどんな意見もどんな人格も認めて、そうかそうしたいんだね、したくないんだね、ってやっていけたら、それが他人にもできて、それだけで世界平和になる。

 

とはいえ、「それだけ」がそんなに簡単じゃないんだけど、それでも、まず自分を満たす、それだけが目の前の目標で、それを達成したらたぶん満たされている人が十分に増えていてドミノ倒し的に気づいたら世界が平和になっているんだろうなぁ、と思ってせっせと自分の声を聴き、友人や家族と心の通うやりとりをする、を、一歩一歩丁寧に進んでいこう、と思っています。

 

足元を見ずに富士山は登れないよね~、そして富士山登っているときでも足元だけじゃなくてそこに咲いている花や鳥、空気を目いっぱい楽しみながら人生というジャーニーを豊かにしていきたいな~、と思ったのでした。

 

すでに波風立っていたところに本物の台風でもっと波風立ちまくっていた私には、

そうそう!としか言いようがないことが書いてあったので忘備録的にシェア船

 

台風も気持ちも強く発生することがあるけれど、それは出せば出しただけ収まる、なんとか軽く、と抑えようとしてもそこにあるエネルギーは出たがっているので、抑えることはできない。

 

抑えてもどこかでまた暴風雨になるだけ、というか…。

必要な発散、でもある。

だから安全に発散、解放、昇華する方法を身に着けたいと思っています。