「いま、『モモ』を精読する読書会」に参加しました。
(このブログ、長くなったので2つくらいに切ろうかと思ったんだけど、
どこで切ったらいいかわからなかったので、そのままにしてあります。
⇒といいながら短い続きを書いたw
長くてなにがいいたいのかわからなくなったらゴメンナサイ。
デモ アナタガ カンガエルコトハ ワカリマセン)
これは2章ずつ進んで、わたしが参加した会で終了予定だったのが、
さすがに第19章になって、それまでの話やそれからの話に思いを馳せ、
読み進めてわかってきたこと、社会について、などなど話していたら
今回は1章分しか進まず、喜ばしいことにもう一回やることになりました
(って主催者は高橋ライチさんというコミュニケーション・カウンセラーさんで私ではありません
)。
まず忘れちゃいそうなので、私が参加した読書会の最終回?のリンクを貼っておきます。
さてさて、私は第3~4章と第5~6章くらいのときに参加して、
その後も参加したかったんだけど、早朝ということで寝る方を選び、
前回は総集編!とおもって頑張って参加しました。
だけど、もう一回ある![]()
また起きるの面倒だけど、楽しいし、もう一回楽しみが増えたんだから、
これは出るしかないよね、と思ってすでに参加ポチ、をしてあります。
で、熱量が高かったので、読書会後もメッセンジャーで読書会中に取ったメモを
アップしたり、ブログ書いた、というのが送られてきたりしていたので、
自然とモモの世界に行ったり来たりをしていて、ふと思いついたことがあるので、
ちょっとブログにメモ的にアップしておこうかな、と思いました。
モモを読んだことがない人、これから読む人にはネタバレになる可能性があるので
この先は自己責任で読んでください。
第19章の読書会中に、
私がふと「光は点か波か、と言われていたけれど、アインシュタインがどちらでも
あることを証明した。じっと見ていると動かなくて点のように見えるけど、
見ていないと動いているもの、それが光」
ということを思い出して発言したんだけど、その先の「実は建物などやこの世にあるものは
少しずつ動いてる、とか振動しているんだけれど、じっと見ていると
動いていないように見える」というのを紹介したかどうか覚えていない…。
まぁ、発言としてしたかどうかは別として、そうなんですよ。
それで、「どこにもない部屋」は時間を生み出す場所なんだけど、
どこにもない。
それは、時間は点でも波でもあるからじゃないか、と思い始めて。
何時何分のここ、と切り取ると点のように扱える。
この点のあたりで待ち合わせね、みたいな。
でも、気づかないうちに動いてる。
で、どこにもない部屋はそんな点でも波でもないところに
位置して点だったり波だったりするものを織りなしている。
ということは、光と時間を同じように扱ってみると、
「どこにもない部屋」は太陽のようなもの?と思って。
宇宙の中で光を発するところは太陽以外にもあるんだけど
(星はどれも自力で輝いているらしい)、
地球まで光を届けてあちこちを照らせるのは太陽だけなので、
地球上の自然な光源、といえば太陽、だということを考えると、
「どこにもない部屋」は太陽のようなものかな、と思った。
太陽のようなものなんだけど、地球から太陽をみたら8分20秒前の太陽の姿、
ということを考えると、「どこにもない部屋」も見えたと思ったらそれは
現在ある姿じゃなくて、いまある部屋ではない、だからやっぱり
「どこにもない部屋」。
とそこまで考えて、ふと、なぜマイスター・ホラは男性じゃなきゃいけなかったんだろう、
と考えて、やっぱり太陽は男性性で月は女性性だからか?と思ったり。
ラテン語系では太陽は男性名詞で月は女性名詞だったような。
それにしても、西洋の男性性の長老のような役割は
ロード・オブ・ザ・リングやハリーポッターにも同じような役割の
登場人物がいたように、欠かせない役なのかなぁ、と思ったり。
これは西洋が父性社会であることにも関係しているのかなぁ。
父性社会、は河合隼雄さんの「母性社会日本の病理」を斜め読みしただけだから、
よくわかっていないかも知れないけど、父性社会はだれもが自立することを
前提としている、という印象を受けた。
(母性社会は、うろおぼえだけど、母の愛で囲うんだけど、
囲いからでたものは、無慈悲に無視され、なかったものにされるか、
母の愛を踏みにじったものとして罰を受ける)
だからマイスター・ホラが父性社会の象徴だとすれば、
それは、誰もが好きなことをしていてもいいんだけど、
尊重し合い、ちょっと距離があり(ここちよい距離なのか、
寂しいのかは人によるだろうなぁ)、自立しているものとしての
人間、が集まっているのが社会だとすると、
モモで描かれている誰もがなにかに突き動かされているように
行動に責任を持たずに生きているのは、ある意味正しい父性社会が
機能していないのかな、と思った。
さらに、時間泥棒が使っているのが、時間≠光だとしたら、
それをどこかに貯めておく、のは蓄電かな、と思って
つい太陽エネルギーを使うのはよくないのかな、と
違うことを考えたり。
そして、貯めるのは人間だけがやることで、
いま必要な分以上を取るのは人間だけ。
そうやって、木の実でも時間でも太陽のエネルギーでも
貯めることによって、どこかで足りなくなる。
足りなくなると地球だったらうまく循環しなくなる。
いま、まさに地球で起きていることだよね。
プラスチックみたいに一定のものを集めて
非常に長持ちするものを作って貯めているおかげで、
それが土に帰ったり、菌や動物、虫などに
食べられなくなった。
石油は何百年もかけて作られるのに、
それより速く使っている。
しかも、貯めるせいでどこかで石油がそこにあるからこそ
成り立っていたことが成り立たなくなる、または石油を使うことによって
公害が発生する、など、人間が保存するとかものを移動してその場で使わない、
ということをし始めてから地球の循環がうまく機能しなくなってきたことを考えていた。
そうすると、太陽が当たるのは地球の片面だけで、逆の面では休む時間であるように、
ムダに見える休息も必要だし、石油がそこにあるだけで使わなかったらムダに見える
かも知れないけど、それはあるべき状態、ムダではない。
時間も寝る時間もぼ~っとする時間も、ジジがほら話をする時間も、
ほら話自体もなんにもムダなものはなくて、
なぜかなにかを多く手にしようと貯金(貯時間)というものを
し始めた人は、生態系の循環から外れて動物っぽくなくなる、
つまり人間味をなくす。
だから、「モモ」では人間味をなくしていく街の人が書かれているんだけど、
それは、自然の循環から外れてしまった私たちに、私たちが所有していない
時間、資源、太陽の光、などなどあらゆるものを所有していると思っている
ことに対する警笛を鳴らしているのかな、と思った。
そう思ったら、なんと壮大な物語だろう、とただただびっくりした。
そして、またちょっと別なことを考えちゃうのが私なので、
つい「浦島太郎」の竜宮城にいた3年間が
現世では700年だった、という話を思い出して、
相対性理論って移動のスピードが早いと時間が遅く進んでる、って
話だってどっかで聴いた時に、浦島太郎の原型を作った人って
宇宙のことがわかっていたんだな、すごいな、と思ったんだけど
(そして浦島太郎に似た話は世界中にあるらしい)、
ミヒャエル・エンデも宇宙の真理がわかっている人だったんだなぁ、と
思った。
この場合の真理は循環、とか、元来所有という概念はない、みたいなこと。
時間も光も土地も何もかも、所有できるものはなにもない、
それなのに所有という概念を作っちゃった人間はどこか違う方向へ
行っちゃったのかなぁ。
なんか、まとまらないまま、頭に浮かんだことをとりあえず出してみた。
もしかしたら後日、文の流れや、内容すらまた違うことを思いついて
いじるかも知れないけど、今日はこのままアップします。