(1)ドラマ『セクシー田中さん』を視ていた理由(ワケ)

ドラマ『セクシー田中さん』をワタシが視聴した動機は、木南晴夏さん主演というその一点でした。
女優・めるるが素晴らしい。ワタシにはまったく関心の範囲外にいた「ギャル枠」女性タレント・生見愛瑠の、平素の髪型とは違うショートヘアも合いまった彼女の演技がキュートで。それを発見できたことが、このドラマを視たワタシの最大の収穫でした。

死の間際、芦原さんがブログで放った一撃は、抜群の宣伝効果だったと思います。
読まなければ、と思いましたもん。原作漫画を。
あると思うのですよ。原作者の作品をまだ見ぬ読者に、原作者の作品を知らしめるために存在する二次作品というのが。たとえ原作者には不本意な出来であったとしても。

あなたには、生きていてほしかった。生きて、作品を創り続けてほしかった。ただただ悲しく、無念でなりません。
『セクシー田中さん』は、読ませていただきます。そのことはお約束します。

(2)原作者の選択肢

この事件を契機に勃発した、原作&映像化論争。これについては、ワタシは収入を得る創作者ではなく、受け手である消費者でしかありません。その立場からは、「原作絶対」とシンプルに一刀両断にすることができません。

武〇先生が面白くない気持ちもわかるけど、先生の原作に忠実にアニメ化してたら、「セー〇ームーン」はあそこまで当たってなかったでしょうね? 冷酷にそう思ってしまう自分がいます。


映画「翔んで埼玉」は主人公の「男役」を二階堂ふみが演じています。これも原作改変と云えば改変。これを仮に原作に忠実に、GACKTと板垣李光人で映像化したりすれば、原作ファンはよろこぶでしょう。魔夜峰央先生も(たぶん)大よろこび。でも興行的にどうなるかは、かなりの大バクチになるはずです。より大衆に向けた「映画」としては、女性キャストへの「改変」は、やむを得ないというより妥当な判断だと考えます。

「原作改変」それ自体には是も非もなく、それが結果として、どうであるかが問われるだけ。それがワタシの考えです。
もしかしたら(原作)漫画『セクシー田中さん』を読んで、「ドラマのほうが良かった」と思う可能性だって、無いとは云い切れません。

まあ、めるる以外にホメどころの無いドラマよりつまらないってことは、たぶんないとは思うんですけど。
ワタシ、ひどいこと云ってます?

「映像化」と云うと、あたかもワード文書をPDF化でもするかのようなイメージを多くの人は抱いているかもしれません。ですが、「コピー」した原作を二次作品にどの程度「ペースト」するか、中身・レイアウト全てなのか、テキストだけなのか、あるいは書式だけなのか。実はそこはグラデーションです。
なかには「六神合体ゴッドマーズ」のような、横山光輝「マーズ」の影も形もなく、クレジットがなかったら「パクリ」疑惑すら出てこないのではないかという作品まであって様々です。

むろん、それは原作者の「許諾」が大前提です。「許諾」した上で、原作者が激怒した。そうした例も、枚挙にいとまはありません。

芦原さんの件に関していえば、問題は「原作に忠実に」という「約束」が交わされていたという点です。
「口約束」だったにせよ、その「約束反古」が厳しく問われています。

聞くところによれば、芦原さんとの交渉が始まる前から、木南さんのベリーダンスのレッスンは始まっていたといいます。テレビ局にすれば、断られる、交渉決裂なんて、有り得ない。あってはならない。許可を得るのは至上命令。
そのためには、守れっこない、守る気もない約束もする。許可さえ取れればこっちのもの。そう思っていたのでしょう。
とかくこの世は世知辛い。そんな業界のこの状況下、原作者が取り得る選択肢は、大きく次の三つだろうと思います。

一つ、断固たる決意で拒否する。

二つ、自分の作品をマスメディアで宣伝してもらえる。そのかわり、出来上がるものは自分の作品とは別物。そう割り切る。

三つ、映画『THE FIRST SLAM DUNK』の井上雄彦ばりに、もはや自分の作品と云えるぐらい徹底的に関与する。

ワタシは業界の現状を「定数」として、原作者の対応について考えてみました。
 「定数」を「変数」にして、放送・出版業界に「変るべし」と訴えるのは、ワタシのガラではありません。

労を惜しまないのなら、契約書を交わすぐらいの法的武装も一手でしょう。ですが、原作者がそんなことをするまでもなく、当たり前に書面の契約を結ぶぐらいに、放送界も出版界もこれを機会に変ってもらいたいものだとは思います。
これからの時代、変らなければ、見捨てられますよ。読者・視聴者からも、原作者からも。

行為そのものは支持しません。おそろくは発作的、衝動的な「事故」のようなものだったと思っています。それでも、あなたの一撃は絶大でした。


(3)作品は誰のもの?――『スパイダーマン』と『ビューティフル・ドリーマー』


そもそもワタシような平井和正ファンは、「原作改変」に関してアレコレ文句を云う資格をもちません。平井和正版『スパイダーマン』を平井和正ファンとして大好きなんですから。
その「原作改変」ぶりたるや、「レオパルドン」の出てくる特撮版に負けてません。東映特撮版か平井和正版かという勢いです。
平井和正版『スパイダーマン』の最初の単行本――サンコミックスの巻末文がまた過激に物凄い。狂信ビリーバーのワタシですら、想像上の冷や汗がこぼれます。
こんなことを云うのは誠に失礼、不謹慎の極みですが、せんせいは絶妙の良いタイミングで、旅立たれたと思いますよ。もし、いまでもお元気だったら、とんだ炎上請負人になってたんじゃないでしょうか。
霊夢と魔理沙のゆっくり解説で、たっぷり解説されてますよ。

 

 さらに率直ないいかたをするならば、私は「スパイダーマン」のキャラクターが嫌いであった。その幼稚さ、こけおどしの仰々しさはゾッとしなかった。これは感性の問題である。
――『スパイダーマン』(サンコミックス)6巻「さらば「スパイダーマン」③ 子どもだましはご免だ」より


平井せんせい、正直すぎます……。

サンコミックス・スパイダーマン


平井和正版『スパイダーマン』は、平井和正が乗っ取った『スパイダーマン』です。スタン・リーの原作テイストは、もはやありません。ちょっと「設定」だけを「ペースト」しただけ。おまけにその仕事に、平井和正自身も乗り気ではありませんでした。
原作者ならびに原作ファンからすれば、憤激ものです。
でも、ワタシはこの作品が好きです。この作品がこの世に生まれて、よかったと思っています。たとえ平井和正が、渋々やった仕事だとしても。それでも手を抜くことだけはしない人ですから。
平井和正オリジナルならあり得ないアメコミ設定に、平井和正的情念の世界という、まったく異質な要素が融合して生まれた妙味。グロテスクなその仮面の下に隠された、小森ユウの青春の憂悶。『スパイダーマンの影』は、やはりスパイダーマンならではの物語であって、ウルフガイ(『人狼、暁に死す』)のそれではないと思います。

 

 私としては、貴君の考察に興味を覚えているからこそ、このようにたびかさねて一文を草するわけです。押井『うる星』のあたる・ラム関係の考察が軽薄であり、極端に我田引水であることは賛成します。しかし、それは押井『うる星』が創造的営為者としての立場から『ルーミックワールド』を単なる材料として使用していることに起因しているからです。彼が優れた創造性の持主であればあるほど、大きく『ルーミックワールド』から離反していくでしょう。軒先を借りて母屋を取る。それが押井氏のやり口です。彼にとって、材料は何でもよかったのです。これは他者によって原作が使用される限り、逃れようのないことです。
 高橋留美子さんにしてみれば、押井氏という他者がご自身の精神世界を材料として作り上げた『うる星やつら』が、原作以上の高い評価を獲得し、世の賞賛を浴びるとすれば、創作者として非常に面白くない思いを味わうことでしょう。原作付きの映像化とは必ずこの種の不愉快な問題を惹起せずにはおかないのです。
 他者の作品を原作とする時、唯一許されるのは、それが原作への純粋な 『オマージュ』――賞賛である場合に限られます。合意なくして他者の作品世界を材料としてのみ使用するのは、邪まな自我の発揚以外の何物でもありません。それは他人を自己の利益のために利用することであって、彼の倫理性がどの程度のものであるか、明らかにしてくれます。たとえ純粋な芸術活動であったとしても、それは決して免罪してくれないのです。
――『夜にかかる虹』(下卷)「いしいのぶよし君への手紙」より(太字筆者)


少し長くなりましたが、非常に大事な部分ですので、引用させていただきました。
平井和正のこの主張は、まったく文句のつけようのない正論だと思います。ですが、完全に高橋留美子ファンの立場で云っておられますが、かつてご自分が作家として何をやったのか、都合の悪いことを都合よくお忘れになっておられるようです。
ワタシは平井せんせいのこういうところは、けっこう好きです。この人の可愛い気ですよ。言行不一致をシリアスに責めるつもりはありません。だって、こういう矛盾を抱えてるのが人間じゃないですか?

なお、高橋留美子せんせいが平井和正版『スパイダーマン』を大のお気に入りであったのも、何かの運命でしょう。

 

――いや。やはりこれは、過去の反省の上にこの言葉があるのだと、そう受け止めるべきでしょう。昔のことをいちいち云い訳しないのは、この人の美意識。ワタシだってもう少し若い頃には、いろいろと失礼なことを申し上げたこともありましたからね。

とまれ、それでもワタシは平井和正版『スパイダーマン』が好きです。押井守監督作のうる星やつら『ビューティフル・ドリーマー』のことも。
だからワタシは、この問題について、理屈だけで一刀両断にすることができないのです。

(4)作品は誰のもの?――アニメと原作の幻魔大戦

りんたろう監督がつくった作品は、りんたろうの作品だと思います。
テレビアニメ「キャプテンハーロック」もアニメ映画「銀河鉄道999」も、そしてアニメ映画『幻魔大戦』も。

松本零士という「通好みの味」の原作を、見事「ファミレスの味」にした。(結果、松本零士という本来マニア受けの漫画家を大人気漫画家にした) りんたろうとは、そういう名手だと思います。
そこへゆくとアニメ映画『幻魔大戦』は、りんたろう作品として前述の作品ほど、「ファミレスの味」になったとは思えません。

 

局所的に「凄い」部分はあるのです。夜の杉並の住宅街、その描写のリアルさ、美しさ。そこにノシノシ迫ってくる大友克洋デザインのベガの怖さ、不気味さ、カッコ良さ。日常空間に侵入する超のつく非・日常、エトセトラ――。

 

迫りくる大友ベガ
――映画『幻魔大戦』より
 

にもかかわらず、アニメ映画『幻魔大戦』のトータルの出来は、芳しくありません。一編の物語として、破綻してしまっているからです。
「おめでとう、幻魔一族は滅び去った」――??? 幻魔って「大宇宙の破壊者」ですよね? たったの三匹? 彼らは「尖兵」であって、やっつけられて連絡が途絶えたら、幻魔の大軍勢が攻めよせてきますよね? ローズマリー・バトラーのエンディングで気持ちよくなってる場合じゃありませんよ?

 

それでも、りんたろうの「原作改変」など、かわいいものだと思います。小説『幻魔大戦』に比べれば。
解説します。アニメ映画『幻魔大戦』の原作は、角川書店刊・小説『幻魔大戦』であるわけですが、この原作にはさらに「原作」(?)が存在するのです。
石ノ森章太郎との共著・漫画『幻魔大戦』です。

映画・幻魔大戦 小説・幻魔大戦 小説・幻魔大戦

(左から)映画・幻魔大戦 / その原作 / さらにそのまた原作(?)

この漫画『幻魔大戦』を平井和正がソロで小説化に挑んだ。それが小説『幻魔大戦』です。
小説化「した」のではなく「挑んだ」。あえてこう書くのは、もちろん理由があります。この小説『幻魔大戦』、途中で大変なこと――文字通り大いに変なこと――になるんですよ(笑)。幻魔宇宙は大ヘンだ!

小説『幻魔大戦』は、最大限いい云い方をすれば、新しい命が吹き込まれています。云うなれば、メタモルフォーゼです。
ひとのアニメのことを「デコッパチ」とか云ってる場合じゃありませんよ。平井せんせい、あなたがやってることはさらに過激です。

 

前述の『スパイダーマン』と『幻魔大戦』の違いは何か。前者は他人の作品であり、後者は自分の作品であるということです。平井和正は漫画『幻魔大戦』の作者です。自分自身の作品です。
だからって、作者なら何をしても許されるというわけではありませんよ?

作品は誰のもの? 云うまでもなく、作者のものです。でも、作者だけのものでもないはずです。
石ノ森章太郎との共著で元祖『幻魔大戦』の多くのファンを泣かせた平井和正は罪作りです。

質問、質問! 質問したい! ちっとも「幻魔」と「大戦」をしていないじゃないか! こんな「幻魔大戦」とは名ばかりの、宗教団体ヒューマン小説を「幻魔大戦」とは認めないぞ! ルナやベガやソニーはいったいどうしたのか!? この作品の執筆者であり、漫画版の小説化を約束していた作者は何をしているのか!? GENKENなんて変な団体を描いてお茶を濁すなんてけしからんじゃないか! 生頼範義の表紙画で恐れ入るほど我々は甘くない!
我々は安からぬ文庫本代を払い込み、貴重な時間を遣り繰りして二十巻もの小説を読んできた。こんな馬鹿ばかしいお説教を読まされるためではない! 即刻、平井和正は我々に陳謝せよ! 我々に納得のいく説明と謝罪、本代の返還と書き直しを要求する!


念のためにお断りしておきますが、ワタシは宗教団体ヒューマン小説であるところの小説『幻魔大戦』をこよなく愛する者です。それはこのブログをつぶさにご覧になってきた方は、よく御存知だと思います。

 

「先生、ごめんなさい! 申しわけありませんでした……」
 菊谷明子が泪声でいった。
「悪いところは改めます。今まで本当に、先生に頼りきってきました……いざとなれば先生が何とかしてくださると甘えきった心で生きてきました……先生のお気持もわからずに、先生の後について行きさえすればいいんだと思って……ごめんなさい……」
(中略)
「私も頑張ります。一生懸命やります。ですから東京へ追い返さないで下さい!」
 大学生の金沢が叫んだ。人々は口々に懇願し、すすり泣いた。新参秘書の伴野静子などは冷えた路上に突伏して泣いていた。感情が昂まり自制がきかなくなったのであろう。

――『幻魔大戦』14巻「幻魔との接触」より


なんだ、この気持ち悪い連中は?(笑)
そう思いませんか? ワタシもそう思います。
小説『幻魔大戦』を毛嫌いしている方なら、なおのことそう思うことでしょう。
でも、ここから抱く感情が、ワタシは正逆なのです。
これが面白いんですよ? 小説『幻魔大戦』は。ワタシの読み方、性格歪んでますか?

上記引用では略していますが、小説ではもっともっと長いです。GENKEN各会員の懺悔が続きます。
恐るべきことに、彼らといっしょにいる指導者・東丈の心理が、ここでは一切描かれていません。不気味なほどです。
こうした理想を求める心清らかな若者たちを、作家・平井和正が決して肯定的には考えていないことがよくわかります。

リアルの宗教団体を離れ、作家業に戻っても、それでもかのカリスマへの想いを棄てられなかった。
信じたい。でも信じられない。疑わざるを得ない。信じることができず、かといって否定し切ることもできない。そんな「迷い」「惑い」のなかで、平井和正は小説『幻魔大戦』を書いた。そんな己れの心境を叩きつけるように、渾身の筆で作品に籠めた。それは井沢郁江の人物像に、ひいてはGENKENの迷走として、投影されることになります。答えの出ない問いに、遮二無二突っ込み、ぶつかっていく。未完は必然、座礁は必定。でも、そこが凄い。だから、凄い。本当に、凄い。

でも、「幻魔大戦」じゃないよね? 石ノ森章太郎との共著にして原典である活劇『幻魔大戦』ではない。舞台が地続きであるにしても、幻魔シリーズの「スピンオフ」として扱うべき作品でした。
ワタシは「好き」です。でも、「嫌い」な人たちの気持ち、怨嗟の声は、理解できます。

ファンとして擁護させてもらえば、別に悪気があったわけではありません。「幻魔大戦」のタイトルで、最初のほうだけ漫画版の展開をなぞっておけば、おれが書きたい辛気臭い小説にも読者がつくで、ぎょうさん売れるで。――そんな意図的な悪だくみをしたわけではないのです。たぶん。知らんけど。

当初の意図は違っていました。まっとうに漫画版を小説化するつもりでした。だからタイトルも『幻魔大戦』。でも、東三千子の死せる運命を描くことができなかった。結果、物語の軌道を、ひいては作品の「質」そのものを、大きく変容させてしまいました。漫画を小説にするという当初の「目的」意識は、ある時を境に自分が真に書きたいと欲する作家性・文学性の発露、迸る魂の叫びへとシフトしてしまいます。
アダルトウルフガイでやらかした「悪い癖」が、ここでも出てしまいました。

この小説が「幻魔大戦」ではなく、初めから「宗教団体ヒューマン小説」として発表されていれば、読者の反応も、世間の評価も、大きく違っていたでしょう。そうできなかったことは、成り行き上「仕方なかった」とは云え、「不幸」であり「悲劇」としか云いようがありません。

こうした原作の「玉に瑕」を補正できるのが、二次作品です。二次作品にはそういう使命、効能もあると思っています。
漫画版展開抜きの、初めからGENKENストーリーの「幻魔大戦」(題未定)。――いまなら充分、現実味を帯びた企画だと思いますけどね。ネット配信系あたり。
作者がこの世を去ったいまならなおのこと、これは原作に想いを寄せるクリエーターに課せられた「宿題」ではないでしょうか。


2024.02.19 全面改稿

2024.03.05 一部削除