連続テレビ小説(いわゆる朝ドラ)『エール』が終わりました。最終放映回は、なんと異例のカーテンコール。歌うまキャストによる歌謡ショー。歌が本業の松井玲奈(音の姉・吟役)は進行役をつとめたものの、ソロで歌う出番はなし。これも厳しい現実。吉原光夫(岩城新平役)に「イヨマンテの夜」を歌われちゃあ仕方がないか。ドラマでは馬具作りの職人頭で、舞台で鳴らした美声を振るうことはありませんでしたが、こういう機会を設ける計らいが粋ですね。


本物の声楽トップも多数キャスティングされました。女優が本業、二階堂ふみは本当によく頑張ったと思います。歌謡ショーのトリを飾った「長崎の鐘」は素敵でした。でも、どんなに頑張っても、声楽トップの人たちにはかなわない。それほど生易しい世界じゃない。それがそのまま、容赦なくドラマとして描かれる見事さ。古山音(二階堂ふみ)はオペラのオーディションに合格しますが、それは歌唱の実力が認められたわけではなく、作曲家・古山裕一(窪田正孝)の妻であることが、宣伝になるとプロデューサーが判断したから。そのことを審査員のひとり、音楽学校時代のかつてのライバル夏目千鶴子(小南満佑子)から聞き、自ら降板してしまいます。
どんなに好きで、努力をしても、超えられない壁はあるもの。頑張れば夢はかなうと云うひとはいる。けれどもそれは、決まって夢をかなえたひとばかり。挫折し、夢を諦めたひとは、多くを語りたがりません。物語は偉大な作曲家を主人公にしたサクセス・ストーリーですが、一方でその妻がプロの歌手を目指しながら、その夢に破れ、それでもそんな現実と折り合いをつけ、好きな歌とともに人生をあゆみ続けた敗者のドラマを冷徹に、かつ温かく描きました。このドラマが他の凡百のそれと一線を画すのは、並み居るオペラ俳優たちに囲まれる二階堂ふみのリアルを、ストレートにドラマに投影する巧みさです。それはコロナ禍による数々の困難にめげず、跳ね除け、それどころか逆に利用してみせる逞しさ、したたかさにも繋がっていたように思えます。

実在の人物の評伝を題材にするのは、朝ドラではむしろ王道ですが、劇中に登場した歌曲は、実際に古関裕而が作った曲の数々。それがもう、よく知った曲ばかり(誰が作ったかも知らず)。ドキュメンタリー性が濃く、その点は大河ドラマに近い。大河ドラマではそこが重視されるあまり、そんな史実はないと、しはしば非難の種になります。お江さま、いくら主役だからって、歴史的事件に関与し過ぎです――みたいな。まあ、あっちだって、根本はフィクションですからね。
そこは『エール』も同様で、古関裕而がインパール作戦の最前線で恩師の死に立ち会った事実はなく※※、古関夫妻に美輪明宏と交友があったいう記録もありません。そもそも歳も違えば、歌の講師だってやってないし。でも、もし接点があったとしたら、こんな関わりが有り得たかもしれない。そんな現実と虚構が混交した面白さも、このドラマの魅力でした。



ミュージック・ティーチャー、スター御手洗よ。実在のモデルがいたかどうかは、ご想像におまかせするわ。

放送話数の大幅削減というダメージも被りました。「長崎の鐘」を歌った藤山一郎は、捕虜として収容所生活を送りました。彼をモデルにした山藤太郎(柿澤勇人)にも、そのシーンは描かれるはずだったのかもしれません。それを想像によって埋めるしかないのは、悔やまれます。さらに悲しい出来事にも見舞われました。作曲家・小山田耕三(モデル:山田耕作)を演じたキャスト、志村けんさんがドラマ制作のさなかに帰らぬひととなったことです。
 

私は音楽を愛していた。君は音楽から愛されていた。いま思えば、それが悔しくて恐ろしくて、君を庶民の音楽に向かわせたのだろう。愚かだった。もしあの時、嫉妬を乗り越え応援していたら、君はクラシックの世界で才能を開花させていたはずだ。私は己のエゴのために、君という才能とともに愛する音楽を冒涜してしまったのだ。
――『エール』第24週・119回より


小山田との和解は、彼が死ぬ前に綴った手紙でなされ、その文面は窪田正孝によって朗読されます。通常ならセオリー通り、ここで志村けんの声が流れたことでしょう。さらに云えば、このシーンそのものが、志村けんとの対面によって撮影され、放映されたかもしれません。
そのような作りにならざるを得なかったのは不幸です。にも関わらず、それによってこのシーンが、ドラマあるある的凡庸さを超え、より鋭利に、研ぎ澄まされた印象をもちました。そのひとはもうこの世にはいない、だからこそ、その声が流れることはなく、映像がうつることもない。これは以後のドラマ演出の、画期となるかもしれません。

物語の最終話である119回、病床の年老いた音は海が見たいと云い、裕一は妻をともない、ふたり浜辺の砂を踏みます。そのふたりが出逢ったばかりの若い、窪田正孝と二階堂ふみの姿となって、浜辺を戯れ、駆け回る。オープニングの光景そのままに。オープニングを飾った映像は、ただのイメージではなく、実は最終話だった。なんという、驚くべき演出!
放映期間(基本)半年。一回の放送時間は15分。必然的宿命的に、最後の最後の15分は、もう消化試合的ゆる~い内容にならざるを得ないのが常ですが、ラスト15分で涙腺決壊させますか。『てっぱん』からこっち、朝ドラを観るのが習慣になって十年、この経験はいままでなかったわ。

そして、タイトルロゴで物語がおわり、主演のふたりがそのまま現実の視聴者に向けてメッセージを寄せ、明日の歌謡ショーを告知します。これはもう、ある種の開き直り。これはワタシの勝手な想像ですが、歌謡ショーそのものが、開き直りの発想というか、もしドラマを大過なく作れていたとしたら、この発想はなかったと思うのですよ。歌うまいひといっぱいいるし、この際だから、やっちゃおうよ! みたいな。
これほど現実とリンクし、現実に翻弄されたドラマは、空前で、そして絶後だろうと思います。

 


※※ 初出では「古関裕而がインパールに赴いた事実はなく」と書きましたが、これは誤り。インパール作戦中のビルマには、慰問に訪れていました。お詫びして、訂正いたします。下記ページとともにご指摘くださった方には、お礼申し上げます。
■朝ドラ『エール』モデル・古関裕而、インパール作戦に従軍「すべては無謀、無駄な作戦であった…」 
https://news.yahoo.co.jp/articles/6123ba99934c44243312c848560f1c8193898dd7

2020.12.05 一部訂正・加筆

2024.04.03 化粧直し