人生をゲームに喩えるならば、10年前の今日の邂逅は、まさにゲームチェンジャーだった。この日の出逢いが、この10年間ないし現在の自分を決定的に変えたことは間違いない。
あれは、いや、あれから起きた数々の出来事も含めて、全てが「天文学的な確率の偶然」であることも間違いない。「数々の天文学的な確率の偶然」を、俗に「運命」という。
10年前のあの頃、私は、所謂スピリチュアル、精神世界という非科学的な思想を激しく批判していた。
スピリチュアルを商売にしている人達からの被害申告が多数寄せられていたこともあったが(そういえば最近はめっきり少なくなった)、そのような社会的意義からの動機よりもむしろ、それまでの私自身の経験に基づく在り方や人生観を脅かされる思想であったことから、自分の人生観を守る為に論理的批判を試みていたのだった。
当時、「人生は偶然でも運命でもなく、選択だ」とする説を唱えたコロンビアビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授による「選択の科学」という本のレビューを記事にしたことがある。運命論をはじめとする非科学的な精神世界を否定し、人生は全て自分の選択次第と説かれ、私は深く共感したものだった。
その矢先の、恐ろしいほどの偶然の連続若しくは運命のような出来事である。
あの日を境に、まるでスピリチュアルからの逆襲だか挑戦のような出来事が次々と襲いかかり、私は「恐ろしいほどの偶然若しくは運命」というよりも「神の意志」に、嘲笑われ翻弄されつつ、何とか自分の意志を貫こうと、足掻き、藻掻き、闘い続けてきた。
今、この10年を思うと、結局のところやっぱり「偶然でも運命でもなく、選択」だったと強く思う。
勿論、私に降りかかった出来事は、恐ろしいほどの偶然の連続であり、それは天文学的な確率での偶然であり、つまりそれは所謂「運命」または「宿命」と呼ばれるものであったことは、れっきとした事実である。
しかし、その運命の渦に身を任せるのではなく、塗炭の苦しみの中にも懸命に理性と感性をフル回転させ、感じ、考え、そうして私は「選択」し続けたことで、今があるのも事実である。
要するに、「運命」とは過去の理由に過ぎず、「選択」こそが「今」という結果である。
今、改めてこの10年間の「私の選択」を思うと、最悪の運命、不運というものはあっても、最悪の選択はなかったのである。
10年前のあの瞬間、それまで自分が生きてきたことの意味を悟り、これは悲劇なんだと、はっきりと分かった。考えて考えて考え抜いた末に選んだ道は、やっぱり悲劇を現実化させただけだった。
私は一度死んで、そして、虚無の深淵から生まれ変わり…
そうして、今がある。
私の選択を後悔したことは一度もない。これからも運命に抗い、闘い続けるのだろうと思う。
それでもふと、あの時私が選ばなかった道のことを思うと、少しだけ胸が痛くなる。私があの選択をしなければ、今でも一緒にいられたのだろうか、と。
どこかに置いてきた、「本当は望んでいたのに、選ばなかったもうひとつの道」を思うときの甘美な痛み。それを日本語では「切なさ」と呼ぶ。
切なさを抱えて生きることもまた、私の選択の結果だ。何と豊潤な人生なのだろう。
人生はやっぱり、選択だ。
ヒゲダンの最新アルバム収録“SOULSOUP”。私の人生のテーマソング決定である。藤原聡が綴る全ての言の葉は私の心そのものであり、挑戦的なメロディに乗せた声は私の心のシャウトだ。
激しく共感してきたRADWIMPS“嘘みたいな日々を規格外の意味を悲劇でもいいから望んだ”(byスパークル)、“あなたと見る絶望はあなた無しの希望など霞むほど輝く”(byカナタハルカ)のフレーズの、更なる先を往く世界観。何度も味合わされた「絶望味のスープ」。飲み干して気絶しては意識を取り戻し、その後に訪れる、得も言われぬ高揚感が忘れられずに、また求めてしまう。この10年はそんなことの繰り返し。
10年後は生きていられるだろうか!?

