切り取られた今の自分の状況を聞いた人からしばしば、このような言葉をかけられることがある。

 

「努力が報われましたね」「夢が叶いましたね」

 

はぁ、と苦笑いで誤魔化しながら、なんか違うんだよなぁ、といつも思う。特に「夢が叶いましたね」は違和感でしかない。

まぁ、この世界のことを少しでも知っている人ならば、夢が叶いましたねどころか、まだまだ入口序の口スタートラインにすぎず、むしろ「茨の道へようこそ」というものなのだが。

 

「夢を叶える」という今となってはありふれた言葉を最初に私が認識したのは、司法試験受験界の雄・伊藤真の「夢をかなえる勉強法」だったと思う。

私が現役受験生真っ最中に出版された本だったが、何故か読後感が逆撫でされるような苛立ちしかなく、その頃から「夢を叶える」という言葉を嫌いになったような気がする。「夢なんか叶わねーよ」とうんざりし続けていたのだから。

 

少なくとも私にとって「司法試験合格」とか、「法曹になる」というのは、「夢」ではない。

じゃぁ何なのかと問われれば、少し前までは「志」とかいう大仰な風呂敷を敷いていたのだが、それは大変な思い上がりであった。今にして思えば恥辱の極みである。

私にとって司法試験は「生き甲斐」若しくは「レーゾンデートル」であり、合格は「最終目標」だった。そしてその先にある「法曹としての日々」は、新たな「志」の一歩である筈だったのだが。

 

では「夢」でも「志」でもなければ一体、何なのか。適切な言葉が思い浮かばない。

 

 

そもそも私にとって「夢」とは、「決して叶わないもの」である。そう定義づけている。

 

夢は「叶える」ものではない。むしろ叶えてはならないものであり、夢は「抱く」ものだと思う。

心の奥底に、ひっそりとしまい込みただその存在を感じ続けるもの。それが私にとっての「夢」だ。だから私の夢は、決して叶わない。

 

image

 

犯罪(とされる行為類型)を犯した人というのは、多くが、絶望的な環境からスタートしている。特に少年は100%近いと思う。この人が現況に陥らないようにする為には、果たしてどの時点で正しい道を選ぶべきだったのかと遡ってみれば、「生まれ落ちた環境から誤っていた」としか思えないのである。

無論、似たような環境であっても、道を誤ることなく順当に生きていく人もいるが、それは偶然でしかないような気がする。

 

「夢」や「希望」や「目標」といった言葉とは無縁な人生を送る人に、いかにそれらを僅かでも、持って貰えるのか。弁護人は、自分の役割を最大限果たす姿を相手に見せつけることで、結果的に、それらを僅かでも植え付けることができると、信じるしかない。

いずれにしたって、「夢」とか「希望」とか、はたまた「志」などという言葉を普通に口にできる自分は、たまたま大変な幸運の星の下なのだ。

 

「僕は、この先輩のことを心から尊敬しているんです」

 

後輩が、先生の前で私のことをそう言ってくれた。何度も何度も、「本当にめちゃくちゃ尊敬してるんです」と言われて、恥ずかしさもあったが、正直めちゃくちゃ嬉しかった。思い返せば未だかつて、誰かに「あなたを尊敬している」と言ったことはあっても、誰かから「あなたを尊敬している」と言われたことはないような気がする。

 

しかも何を尊敬しているのかといえば、それは私の「強靱なメンタル」だというのである。そしてどれだけ酷い目に遭っても「明るくポジティブなオーラがある」のがまた凄いというのである。

「こんな色々とんでもない目に遭ってるのに、この状況で、全然前向きでいられるんですよ!?」

ってそれじゃただのポジティブバカじゃないか。でもこの評価ポイントが嬉しい。大げさでなく、「今日まで生きてきて良かったな」と思う程だ。

 

いや、大げさでなく、色々と過酷な試練の連続だったのである。何度も絶望の底辺に叩き落とされたのである。「絶望する」とはこういうことか・・・絶望という名の風味を、これでもかこれでもかと味合わされたのだ。

 

挙げ句、リアルに生命の危機にまで晒されたのである。癌という病が日本人2人に1人の確率で罹るとはいえ、このタイミングでそれはないだろう、である。

しかしそれすら何の衝撃も覚えない程、私の、試練に対する感覚は麻痺しきっていた。

 

そんな中でも、なぜだろう、自分はとても幸運な星の下にあると、根拠のない自信を持っていた。

 

それは多分、「親ガチャ」でとんでもない星の下に生まれ落ちて苛烈な人生を強いられている人々のことを知ってしまったから、というのもあるだろう。彼ら・彼女らの前で、自分の人生が過酷だなんて言おうものなら罰が当たる。

 

それと、私にはかつて、人格を完膚なまでに破壊される程の目に遭わされながら、地獄の底から這い上がってここまで来たという自信がある。自分にはその強さがある、あの壮絶な経験を経て、自分は絶対に壊れない強靱な心を持てたのだ、と。

 

だからどんな目に遭わされても、何度絶望に叩き落とされてもそれは、来たるべき闘いに備え、自らの武器となるメンタルをより強靱なものに鍛え上げる為の準備であり正に「チャンス」なのだと、心から思えた。

 

来たるべき闘い?相手は?

 

それは最終的には国家権力である。弁護士は、「司法権」というフォース(スターウォーズの、あのフォース)の力を得て、己の正義に従いその強大な力を適切に振るうのである、と、恩師から教わった。

図らずもその恩師は先日、「弁護士としてやっていく上で、一番必要なスキルは?」という問いに対し、「強いメンタル」と即答した。

 

 

鍛え上げた筈の私のメンタルだが、相変わらず心折られそうな日々が続く。この先自分の人生には、悲しみしか降り積もらないような気がする。しかもそれは確信に近い。

 

悲しみの中に「潤い」を、苦しみの中に「充実」を感じるようになった私に、夢とか楽しみとか幸せといった平穏な言葉は似合わなくなってしまった。けれども少しも後悔していない。なんと幸運な凄い人生なんだ(現時点までは)と、心底思っている。

 

そこまで強くなれるのは何故なのかと問われれば、見捨てられた人々を見捨てない仕事をするのだという「志」があるから・・・

なんかじゃないような気がする。

 

それはやっぱり、私の胸の奥の深いところに、そっとしまい込んだ「夢」を抱き続けているから、なんだと思う。

9年前、いやきっと、もっとずっとずっと前から抱き続けている「夢」があるから。叶わないと知りつつ、それでも抱き続ける夢が。

 

叶えてしまえば、夢は夢でなくなる。だから万に一つでも、決して叶えてはいけない。

 

今の私の心はまるで、桜吹雪の舞い降りる踏切を後に、空を見上げて立ち去るタカキだ、と思う。

 

image

 

 

 

image

3月29日より「秒速5センチメートル」リバイバル上映にあたり、新海監督が公開当時ボツにしたポスタービジュアルをXにて公開。

 

 

 

先日の「不適切にもほどがある」、山崎まさよしのワンモア~歌ってましたね!

「こんなところにいるはずもない系のやつ」って・・・

あの曲で「笑いが堪えられない」状況に陥れたクドカン、やっぱり天才だ!