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公開初日。私は大いに不満であった。

 

その日は5日間続く二回試験の3日目。連日の7時間近い試験を終え、疲労困憊の体を和光市から池袋の映画館まで引き摺って運び、“まるで時刻表のような上映スケジュール”と揶揄されたシネコンジャックのお陰で、午後8時過ぎからの回に間に合わせた。

 

終演後はグッズ売り場が閉まっていることが予想されたので、とりあえずお約束のグッズを大人買いしておく。

 

つい数時間前までは、民事事件紛争の最終準備書面とかいう文章をつらつらと書いていた。その頭を無理矢理空っぽにして、新海ワールドに浸る心の準備を整える。

 

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元々、新海監督の新作に期待していないのが常であった。「君の名は。」なんて古ぼけたタイトルに、新海節がスパークしてたなんて微塵も予想してなかったし、「天気の子」なんて天気を操る女の子の話に、常識とか正義だとかをぶち壊す挑戦的な主題を持ってくるなんて欠片も想像してなかった。

 

今回の「すずめの戸締まり」も、予想通り、まるで日本昔ばなしみたいな全く期待できそうにないタイトルだ。期待値が低ければ低いほど、その後に来る驚きと感動の反動が大きくなる・・・だから今回も、「全く期待できない」という期待を裏切ってくれるのだと密かに期待していた。

 

ところが・・・

 

 

最初に断っておくが、結局私は、現時点ですずめの戸締まりは現時点で6回見ている。ほぼ1週間に2回のペースである。

つまりそれほど私は、新海作品に今回もまたやられている。

 

もっとも初日初回上演後、大変な思いをして辿り着いた満員の映画館で私の心は、怒りにも似た不平不満の文句が頭の中で渦巻いていたのだった。

 

前半がややダルいのは新海作品のいつものパターンだ。「笑いどころ」で笑えるのは初見ワンチャンス、そのチャンスもしっかり笑ったが、2回目以降は笑えないだろうなというのもいつものパターン。

しかし新海作品は、クライマックスからの着地に驚愕があるのに、今回の着地点が余りにも予想通りで驚きがなかったのだ。そればかりか、クライマックスで流した滂沱の涙が、ラスト15分で一気に乾いてしまったのである。

 

なんなんだ、これは・・・

 

「天気の子」の時とは真逆の意味で茫然と流れるエンドロールを見ていた。主題歌に全く感情移入できない。

 

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聞けば、新海監督は今作で、三つのテーマを描いたのだという。

一つ目は主人公すずめの成長ストーリー。二つ目は定番のラブストーリー。そして三つ目は、3.11大震災である。大きなテーマを三つも仕込んだせいで、各々のインパクトが薄くなったような気がした。この事実を知った私は慟哭した。

 

新海誠よ、お前はいつから、細田守になったんだ!!

 

言いたいことは山ほどあった。今回劇伴がイマイチ、エモくないと思ったら、RADWIMPS単体ではなく陣内一真というハリウッドで知られた映画音楽プロデューサーとのコラボだという。一人の音楽家に任せず、テイストが異なる複数のアーティストに依頼する、それって細田守じゃないか。

 

主題歌がまた、十明というTikTokでは知られたボーカリストだという。それはいいのだが今回、野田洋二郎が歌わなさすぎる。野田洋二郎のボーカル曲は「ハルカカナタ」たった一曲だ。

その貴重な一曲もイマイチ、刺さらなかった。これなら少し前にドラマ主題歌でリリースされた「人間ごっこ」の方が余程刺さる。私はこの夏、「人間ごっこ」を延々と耳元でかき鳴らし、泣きながら歩いていたのだ。RADは昨年、文春砲とか諸々あったので手が回らなかったのか?それとも才能の枯渇なのか?

 

まだまだある。

てんこ盛りの懐メロが妙に耳に残る。歌っているのが私の一推しである神木隆之介でなければ耐えられなかったところだ。

元々、新海作品での男女が惹かれ合う理由は理由として描かれないのだが(理由がないのが恋だから当然だ)、今作では更に理由がなくなっている。すずめが草太に一目惚れした理由、それは「どこかで会ったことがあるような気がしたから」なのだが、そのオチがラストで明かされた途端、その理由が淡すぎてほぼ消滅してしまうので、要は「草太がとてもイケメンだったから」という身も蓋もない理由に落ち着いてしまう。

すずめが草太に惹かれていく過程に、それまでの新海作品にあったような「どうしようもなさ」が、圧倒的に足りない。それからやっぱり「草太」はどうしても憲法学者の木村草太を思い出すので止めて欲しい。どうせ昭和ポップスを流すなら昭和歌謡曲じゃなく、角松敏生とかの昭和シティポップスにして欲しい。エンドロールの途中で歌が変わるのは慣れない。etc.etc.

 

そしてそして、何と言っても不満だったのはあの着地だ。新海監督はこれまで、「君か、世界か」の二者択一の世界を描いてきた。そして作品毎に、想定外の展開若しくは選択を主人公にさせてきたのだ。

 

世界のために闘うミカコはただ君に会いたかっただけだし(ほしのこえ)、2作目で早くも「君」を選んで世界が崩壊する(空の向こう、約束の地)。「君を喪失した世界」というコペルニクス的転換で衝撃を与えた「秒速5センチメートル」。君を救うためただそれだけの為に結果的に世界を救ったことになる「君の名は。」。そして、遂に「天気の子」では君を選択することで世界を犠牲にしてしまう。

 

となると、次に来るのは、自己犠牲しかない。

君か、世界かという選択を迫られた主人公・すずめが、「私が要石になる」ことを選ぶのは必然だ。「要石って、閉じ師じゃなくてもなれるのかな」という伏線からは当然、「私が要石になるよ!」というセリフに着地するのは予想できたし、期待に応える展開に涙腺も決壊だ。唯一エモい劇伴(「草太の元へ」RADWIMPS&陣内一真)に併せ、新海映画お約束の“回想シーン”。耐え切れない・・・

 

・・・とここでなんと、新海監督は、犠牲となる者の構図・・・「僕」もしくは「君」もしくは「世界」のいずれかを選択する構図である・・・ここで全ての犠牲を、猫のダイジンに引き受けさせてしまうのである。これには唖然憮然だ。

それまで単なるトリックスターとしてすずめの脇をチョロチョロ翻弄していた猫が全部持って行ったとは!え?すずめも草太も無事で、何の犠牲もなく、元の世界に?

 

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私的は、あのシーンでは、すずめか、草太か、世界か、その何れかが犠牲にならなければ新海作品ではないと思ったし、新海監督ならば、例えばすずめと草太が二人とも要石になる(二人とも犠牲になる)というラストも描けた筈だと思った。少なくたって、草太が犠牲になるべきだった。常世でたった一人取り残され、世界の災厄を抑え続けている草太を、すずめは背負って生き続ける。それでこそ新海ワールドだ。

 

それなのに、「君」でも「僕」でもない、「第三者」に犠牲を押しつける展開は余りにも陳腐だ。新海監督、まだまだこんなもんじゃないだろうよ。


終わってみれば、猫が主人公の映画じゃないか。常世でミミズと闘うサダイジン、画面の右上の方、端っこの遠くで雄々しく闘っている姿が一番の胸熱シーンだった。ダイジンはただ、すずめの子になりたかっただけ、その願いが叶わないことを知り、「すずめの手で元に戻して」と、人柱ならぬ、“猫柱”となることを決め

る。切なすぎる。

 

ラスト15分で、私の泪は一気に乾ききった。特に最後の、すずめの自分への語りかけが納得出来ない。あんな言葉で子すずめに生きる希望の灯火が宿るとするならば、いっそ3作品共通言語の「あなたはきっと、大丈夫」の一言で締めた方が余程新海っぽくて良かった。あんな当たり前の言葉で、地獄を見た者のトラウマを克服できるものなのか?大いに疑問だった。

 

これが、嘘偽りない、初日の感想だ。

 

だがしかし、私のこの感想は、いよいよ二回試験を終えた15日の翌日、晴れて「2度目」の鑑賞、その後「3度目」「4度目」・・・と回を重ねる毎に少しずつ変化していくのであった。

 

【新海誠「すずめの戸締まり」レビューⅡに続く】

 

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ダイジン救出、900円目で成功!

 

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初日の戦利品。

池袋から和光のホテルまで運ぶのは恥ずかしかった大変だった。

 

 

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翌日、わざわざ道玄坂まで戻ってゲットした一番くじ戦利品。

道玄坂から和光のホテルまで運びながら自分は心底アホだと思った。