私には、数少ないが、目に入ればゾッとする程嫌悪する言葉が、いくつかある。

 

「正しく恐れる(怖れる)」という言葉も、その一つである。

 

image

CÉ LA VI TOKYO@東急プラザ渋谷18Fから

 

この言葉の本質は、無責任極まりないにもかかわらず、一つの思想の正当性を押しつけ、言葉の先にいる人々を愚かであるとして叩き斬ることにある。

 

 

「正しく怖れる」の「正しく」という言葉の裏には、「自分は正しさを分かっている」という傲慢さが潜んでいる。

 

何が正しくて何が正しくないか。そんなことは神様にしか分からない。我々如きが正確に把握出来るのは、現象とその原因であり、「事実」のみである。「正しさ」は事実に対する「評価」にすぎず、人の数だけ「正しさ」がある。我々は、リスクを負って、自分が正しいと思う、正しさ「らしさ」を選択して日々生きている。

 

にもかかわらず、「正しく怖れる」という言葉の「正しさ」には、有無を言わさぬ絶対性と、他の正しさを認めぬ排他性がある。この言葉の主には、自分の選んだ正しさは「正しい」と信じてやまず、絶対に間違っていないという確信がある。

 

その上、この言葉は大概、正しくない(とされる)怖れ方をしている人々の愚かさを嗤う時に使われている。

コロナに関する薄~く曖昧で根拠が脆弱な情報を最大限膨らませて書き連ねた後に、「我々は“正しく怖れる”ことが肝要である」等と締める記事を、ネットから雑誌から一体何本目にしたことだろうか(週刊新潮に多い)。その情報そのものが「正しい」かどうか分からないのに(いや、結果的に全てフェイクに近かった)、その「正しさ」を明確に示すことなど一度もないのに(「正しさ」は評価の問題であるから、一義的に明確に示すことは出来ない)、我々が正しくない怖れ方をしているとして戒めているのである。

 

ちなみに、ここでの「正しく怖れよ」の意味が、「あなたが選んだ」正しさに従って怖れよ、という意味であることは、絶対にない。

そもそも「正しく」という言葉をチョイスした時点で、その発言主は、自分の正義を疑っていないのだ。自分が正しいと思ったことがない人間は、そもそも○×クイズや択一問題以外で「正しい」という評価の言葉を使ったことがないはずだ。

 

要は、「正しくない怖れ方をしているお前は、頭も悪いし行動も間違っている、救いようのないバカだ」と言われているようなものなのである。それも、通りすがりの人から。

 

その言葉を放って来るのは、あなたがどうなろうと知ったことではない、赤の他人だ。

それだけではなく、その言葉を放って来るのは、言葉を商売にしている人々である。商売と言っても、金銭の問題だけではない。その言葉を放つことで、自分が優位にいることを周りに見せつけ&自己確認できる、そんな言葉の素人商売人も含む。

 

無責任であるだけではなく、自分の「金と心の飯の種」にされているとは・・・

 

つまり、「正しく怖れる」もしくは「正しく怖れよ」という言葉は、言葉の「通り魔」なのである。

金と心に対する暴力、それって強盗?うわぁ、怖いよう。