今年の司法試験前夜、私の四半世紀に及ぶ司法浪人生活に終止符を打った先生から、メッセージが届いた。

 

「今年は受けないのですよね???」

 

声を出して笑ってしまった。

「誰のせいで受けられなくなったと思ってるんですか!」

 

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5月に実施される司法試験は、今年で最後である。来年から司法試験は7月実施となる。

 

旧試と呼ばれた時代から、司法試験とは、5月から実施されるものであった。

旧試は択一試験が5月に実施され、僅か2割までふるい落とされた猛者たちだけが、7月の論文試験に挑める。多くが5月の択一試験に一生受かることなく、屈辱の記憶だけを残して消え去って行く。

 

かつてはこの、「択一合格」が司法浪人生の悲願とされた時代があった。択一合格だけで胸を張れる時代があったのだ(4人に3人が通過する合格率と化した現在は、短答を通過するのが当たり前であり、「合格」とは言わず単なる「通過」に過ぎないとされる)。

 

 

平成18年から始まった「新司法試験」は、5月第2週に、中日1日を挟んでまる4日間、論文式試験17時間、短答式試験5時間30分(平成27年度より175分に変更)に亘って実施される。

これが来年からは、制度改革により7月になってしまう。1956年以来、50年以上にわたり「5月、母の日実施」されてきた司法試験がなくなるのである。

 

 

私の経験上、司法試験の前日の天気は、かなりの高確率で〝晴れ〟である。

 

1年間乃至数年間、その日の為にゼロ休日で準備を重ね、万感の思いで試験前日を迎えるのである。全ての司法試験受験生にとって、試験は前日から始まっている。

だから全ての試験の記憶とともに、「試験前日の記憶」も残っている。

 

「超直前期」であるGW期間中も、全ての時間を司法試験に捧げているのであるから、試験はGW中から始まっていると言える。どのような過ごし方をしていようが、GWというのは司法試験の為に存在する。少なくとも私はこの18年間、GWとは「勉強黄金週間」であると認識して過ごしてきた。

私だけではない。GWを司法試験に捧げない受験生がいるとすれば、その者は司法試験受験生ですらない。普通の人間である。

司法試験受験生は、「人間ではない」のだ。

 

 

東大を卒業後、年数を経てなんとか合格した先輩がしみじみ回顧していた。

 

「この試験の恐ろしいところは、とんでもなく頭のいい人たちが、少しも手を抜かず全力で挑んでくるところなんですよ」

 

世間はこれが分からない。いや、旧試で合格した弁護士ですら全く理解できないのである。「俺たちは合格率3%時代の合格者だ」「予備試験組の司法試験合格率は9割以上。ロー組はたったの3割だ」だから合格率が4割に達した現在の司法試験合格者をバカにし、ロー卒組をバカにする。

だがそれは、そもそもの前提が狂っている。

 

予備試験の合格率は4%である。司法試験よりも合格率が遙かに低い試験を突破した精鋭が、司法試験に合格できない訳がない。

そして直近の合格者の内訳を見れば、ほとんどが現役の超難関校学部生とトップロー生だ。彼らはローを保険として、予備ルートで司法試験を受けに来る。

 

また、恐ろしく狭き門である予備ルートに乗れなかったロー生も、ロー入試という篩にかけられて入学したポテンシャルの高い若者ばかりである。

 

志を高く掲げた、学力という点で既に頂点を極めている精鋭同士の闘い、その熾烈さを一言で表すならば、「東大生も落ちる試験」、つまり、東大に合格するよりも難しい試験である。

 

「合格率3~4割なら自分も合格するだろう」、潜在的に甘い幻想を抱いて参入した高学歴者が、屈辱にまみれて敗れ去る姿を何人も見てきた。自分を客観視する勇気のない者が、最初に脱落する。

 

 

次に、何年か試験を受けていると、徐々に実力がついてくるのが分かり、「次は自分が合格する番だ」と錯覚するようになる。

勉強時間と勉強量は誰にも負けない。ローを卒業したばかりの、たかだか司法試験受験勉強歴2~3年の後輩に負けるとは思えない。しかも毎年輩出される上位1500人の「合格者」は、翌年絶対に受験しないのである。

 

にもかかわらず、大半の合格者は新参者の「受験1回目」の者で占められる。実際は私のように、実は9回目なのに何度も受験資格を取り直しては挑戦する偽1回目が相当数いるのだが…

 

いずれにしても何故そうなるのか、その現実認識と原因認識を出来ない者が、次に脱落する。

 

自己を客観視し、徹底した自己否定と徹底した合格者分析ができて初めて我々は、真の司法試験受験生になれるのである。自分はダメだ、ダメだ、ダメだと自分で烙印を押し続けると同時に「ダメな自分はどうしたらダメでなくなるのか」と徹底して追究し続けてもなお、決して折れない強靱な精神の持ち主だけが、司法浪人から「合格者」へと転生しうる。それが出来ずに、一生試験を受け続ける者が後を絶たないのが司法試験である。

 

したがって、誰が何と言おうが、日本の司法試験は、世界に類例を見ない程の最難関試験なのである。

 

 

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5月というのはかなりの高確率で、角松敏生のツアーが始まる月でもある。GW明けからの5日間に、それまでの1年間の全てを捧げて生きるのが司法試験受験生である。だから私は5月前半の角松ライブに参加しようと思ったことは一度もない。

 

2022年5月14日。仲間たちは司法試験第3日目論文式刑法を終え、いよいよラスト最終日の「短答式試験」に向け、最後の追い込みをかけている頃である。

 

その頃、私はなんと角松敏生2022年ツアー初日、川口会場にいた。

 

ライブの感想を一言だけ。

数十年ぶりに聴く80年代のナンバーは涙なしには聴けないが、ノンストップで奏でられるダンスナンバー中、久々の新曲、それも攻めに攻めたダンスナンバーで、幾度となく拳を突き上げ、ステージを歌い踊り客席を煽る角松敏生、御年62歳・・・!!自分もこれからだ、まだまだ行けるじゃないかと、勇気しか湧かない。

「5月のライブ」なんて、1998.5.18解凍ライブ@武道館以来だ。自分がここにいられるなんて、夢のようだ。

 

 

今年、5月実施最後の司法試験は15日に終わった。司法試験も、予備試験も、足切りである短答式試験結果は既に出ている。多くの者は既に自己採点済みだ。

 

点数が足らなかった者はもちろんのこと、短答を突破した者も、司法試験「翌日から」、来年の司法試験(若しくは7月の予備論文試験)に向けて走り出している。つまり、司法試験受験生は、365日中365日を司法試験の為に捧げている。

それでも合格するとは限らないのが日本の司法試験だ。これほどまでに倒し甲斐のある魔物がいるだろうか。

 

司法試験は、ただの「試験」でもなければ、「勉強」ではない。ましてや「学問」でもない。

人生を賭けた「知的遊戯」、すなわち人生ゲームである。

元々の知力に長けたハイスペックの若者が全身全霊を賭けてゲームに挑み、闘技場を支配する覇者となる。

経験値と気合い「だけ」は誰にも負けない我らベテラン司法浪人は、そこに僅か指先一本でもいいからと必死に手を伸ばし、勝者として潜りこもうとする。

 

5月、司法試験最終日の同日実施の「予備試験(短答式)会場」を見たことがあるか?

そこには、希望に燃えた若き学部生たちに混じり、人生の一攫千金を夢見続けているおじさん、おばさん、おじいさんといった高齢者の超ベテランたちがどこからともなく湧いて出ているのだ。

それは、さながら司法試験という魔物に取り憑かれたゾンビのようである。その闘技場から潔く撤退すれば、普通の人間に戻れるのに。

だが、私もかつてはそのゾンビだった。

 

合格するまで死んでも死にきれないゾンビから、「合格者という人間」に転生するにはどうしたらよいか。それは極めて単純である。

 

一度、本当に「死ぬ」ことである。

 

死ぬと言っても物理的に死ぬわけではない。徹底した自己否定と、自己犠牲の覚悟である。そこではじめて、どうしたら合格者に生まれ変われるのか、一筋の光明が見えてくるのである。上から蜘蛛の糸がスーッと降りてくるのである。

それは、司法試験の為にこの命さえも惜しみなく捧げ尽くす決意である。それでも合格者に転生するとは限らないのが日本の司法試験だ。これほどまでに非情な無理ゲーがあるだろうか。

 

 

2018年・4年前の再失権を賭けた最後の闘いを終え、自宅に戻った私は、スキマスイッチの“アイスクリーム シンドローム”を心でかき鳴らしながら声を上げてわんわんと泣いた。

このまま、君と、永遠に、闘い続けていたかった・・・、と。

 

 

それから3年後の2021年。自分は敗者などではない、勇者だ・・・遂に心からそう思えた瞬間、私の闘いは終わってしまった。

 

 

 

覇者となった今でも、5月と聞いただけで反射的に血が騒ぐ。風の薫りを受けて記憶が蘇る。

どこまでも高く青い空を見上げては、苦しくて切なくて倒れそうな思いを、熱き志に無理矢理変換して、来る闘いに備えたあの日々の記憶。

 

令和4年・2022年、最後の5月の司法試験。

きっと私は、来年の5月も、その次の5月も、季節が巡る度に、あの空を、風を感じたならすぐに戻るだろう。

司法試験という名のシンドローム。