前回記事の「観劇記」・・・じゃない「司法浪人が捨てなければ合格者にならないもの第2弾」の続きの話である。

それは、公私の「私」(わたくし)、「私心」である・・・と悟りを開いたところまでが前回のお話。

 

プライドを棄て切り、私心を捨て去った私は、ひたすら「感謝」の一念だけを胸に、今年の最後の闘いに挑んだところ、どうなったか。

 

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本番の論文試験で「神が降臨」したら不合格フラグが立つ、と言われているのは有名な話である。

 

周知の通り、司法試験では、しばしば未知の問題が出される。

未知の問題はもちろんのこと、お馴染みの問題でも自分が余りにも勉強不足でさっぱり分からない場合であっても、うんうんと必死に考えて考えて六法めくったり問題文読み直したりして苦しみ抜いていると、フッと、何かが降りてきたかのように「閃いて」しまうのである。

 

これが俗に言う「神降臨」である。その時受験生は「自分は凄いことを思いついた!これは行ける!」と興奮を抑えつつ無我夢中で、降りてきたその内容を書きまくっている。勝利を確信しながら。


その実態は、異様で異常な極限状態に置かれた受験生の精神が生み出した幻覚であり、実際は神ではなく死神である(ベテラン受験生の怨念、とも言われる)。

司法試験で「神」を見た者は、その科目では必ず死ぬ。

 

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私は今年、神は見えなかったが、自身が神であると思いながら書いていた。

 

過去も現在も未来も、全てを捨て去った無私の心。3年前の、あの「2度目の5年5回目」という失権の恐怖と、ギリギリまで追い詰めた極限状態から来る異様な精神状態とは対極を成す、無我の境地に私は心を沈めていた。

 

無心で司法試験委員の「手」を読むことに全神経を集中させ、彼らの出題意図が見える(と思っている)ようになると、次第に自分と司法試験委員との境界線が曖昧になり、自分が司法試験を支配しているような感覚になる。そのうち私が司法試験委員なのか、司法試験委員が私なのか分からなくなり、ペンを走らせるこの右手は「神の右手」と、自己陶酔するようになる。

 

そう、著しい万能感から遂に私は〝我こそは神である〟という静謐の境地に至ってしまったのである。

恍惚の笑みが堪えきれない。完全に精神をやられてしまっていたのか、そうでなければ単なる大馬鹿者である。

 

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