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 東京都心が観測史上最長の33日間連続降雨記録の23日目が、「天気の子」の公開初日であった。初回は午前9時スタートであるが、この朝は京王線・井の頭線が始発からストップするというアクシデントがあり、映画館まで車を走らせて何とか間に合わせた。映画館を出た瞬間、嘘みたいな話だが久々の陽光が見えたのだ。2019年7月19日の劇的なあの瞬間、私は思った。「新海誠と同じ時代に生きていて、良かった」。あれから1ヶ月、毎週1回、どれほど忙しくとも劇場で「天気の子」を観ている。今週で5回目である。

 つまりは表題通りの感想である。新海信者の私の期待を遙かに上回る出来であったということである。よって兼ねてからの予告通り、ここでひっそりとブログ記事をアップさせねばならない。しかし、ブログは凍結している。再開させるつもりはまだない。
 そこで今回はあくまでも「補遺」としてアップすることにした。角松敏生が音楽活動凍結の数ヶ月後にベストアルバム「1981-1987」をリリースしたような感じをイメージである(何の事か分からない人はスルーでお願い)。

 新海誠は今作を、「賛否両論ありうる問題作」「君の名は。で怒った人をもっと怒らせたくて作った作品」「一般的には共感できないかもしれない」「テレビでは絶対に言えない言葉を言わせた」等と位置付けている。批判の礫が雨あられのように飛んでくることを覚悟どころか「楽しみにしている」と言い放つ。馬鹿言うなよ、新海信者が今作を支持&絶賛しないわけがないじゃないか。デビュー作からのオマージュだらけの総決算プラスこの胸を抉るテーマと結論を。
 「天気の子」を批判する記事を目にする度に、嬉しくて仕方がない自分がいる。「彼の良さを本当に理解出来るのは、このわたしだけ」、そんな感覚だ。中には正鵠を射たレビューもある(新海信者の手によるものであろう)。そんな記事を見つけるとちょっぴり悔しい自分がいる。そこで、誰も書けない視点からの「天気の子」を解釈&絶賛するレビューを書こうと思う。

 

 

 

 “世界なんて、狂ったままでいいんだ”

 

これは帆高が叫んだ台詞「天気(=世界)なんて、狂ったままでいいんだ」であり、今作のテーマであり、新海が最も言わせたかった言葉である。賛否両論分かれる、と予測される所以である。
 何が正しくて、何が間違っていて、何が狂っているのか。確かなものは何もなく、正義とは相対的概念に過ぎないと本能的に悟っている者にとって、この台詞には快哉しかない。

 「天気の子」では帆高や陽菜(=大人になる前の私たち)と、社会(=大人)が決定的に対立する。子供社会と大人社会といった単純なものではない。社会とは、分別つく大人であり、正しさであり、賢さであり理性であり、調和であり平和であり、常識であり法規範であり倫理規範である。多数決によって正当で合理的であるとされた一種の在り方である。「君」が対立することになる社会とは、これほどまでに強大な存在なのである。

 そして「天気の子」で帆高たちと対立する「社会」代表として置いたのは、警察というザ・国家権力である。警察が正義という名の国家権力を発動すればするほど、滑稽なほどの違和感が生じる。その違和感に観客が気付くのは、帆高を取り囲んだ複数の警官が、一斉に帆高に銃口を向ける瞬間である。高井刑事がトリガーに手をかけマジな口調で「撃たせないでくれよ…」(刑事もののクライマックスシーンでお馴染みの台詞だ)と呟いた時は吹き出しそうになった。どんなに鈍感な観客であっても、この瞬間、狂っているのは帆高なのか警察(社会)なのかが分からなくなる筈だ。観客の声を代表するかのように、我に返った須賀が叫ぶ。「お前らだってひでぇだろ、落ち着けよ、いい大人がガキひとりに」。しかし狂っているのは帆高かもしれないのだ。「あそこから彼岸に行ける!」屋上を指さす帆高に、須賀が目を覚まさせようと頬を殴ったのはその直前ではないか。いや、確かに帆高も狂っているのだ。少なくとも、「君」と引き換えに世界の調和を狂わせたという帆高の選択は狂っている筈である、「社会正義」から見れば。
 それでも帆高の正義とは、「君」だ。新海作品に連綿と引き継がれているこのブレのない結論に、新海ファンは快哉しかない。

 

 

 しかしこの作品での警察ときたら、どうしようもなく汚く役立たずの大人社会を象徴させる描かれ方である。警察は、正義を具現する機関であり、最も正しく、最も頼りになる、正しさを守ってくれる存在だ、という世間の「大誤解」を見事に解いてしまう。

 行き倒れ寸前の帆高を助ける大人はなく、警察は規則通りの「補導」という名の声かけをするだけである。振り切って逃げられると「ふざけんな」と罵声。自分たちで生きて行かれるという陽菜に、規則通り訪れる警察と児童相談所。児童相談所に行ったら引き裂かれるだけだと逃避行する3人に、これまた規則通りに「職質」をかける警官。不審事由発見するや逃げようとする帆高に手を掛け、振り払わせ(=有形力を行使させ)たところですかさず「公妨!(公務執行妨害罪)」だ。ホント汚ない奴ら。
 その後帆高を3つ位の罪名容疑を並べて限りなく強制に近い任意同行(どれほどの凶悪犯扱いなのか)、パトカーの中で、陽菜が犠牲になって天気の調和を取り戻したんだと泣きながら憤る帆高に、警官が一言「鑑定医、いりますかね」。
 帆高を救出すべく夏美がルパン三世並のカーチェイスを繰り広げるシーン。清々しい程の道交法違反だ。挙げ句夏美に叫ばせる台詞が「私、白バイ隊員になろっかな~っ」とは。
 代々木の廃ビル目指し線路を走る帆高。危ないと警笛を鳴らす作業員、奇異な目で見る大人たち。車内で犯罪行為を犯し線路を逃走するといったニュースを思い出させる。線路に入ることは法律違反だ。
 いずれにしたって、警察も児童相談所も大人は誰も、肝心要な時は傍観し助けも何もしないくせに、自分たちの力で這い上がろうとすれば逆に邪魔ばかりする存在なのだ。児相と警察による見殺し。誤認逮捕。警官による不祥事、犯罪。SNSで正義が叫ばれ、裁判とは別の場で裁判される。裁かれるべきが裁かれず、一方で冤罪が闇に葬られる。これは、映画の、架空の、ファンタジーの、たかがアニメの話ではない。2019年の日本社会で起きているリアルである。
 ここまでの伏線が、クライマックスの「高校生に、警官が一斉に銃口を向ける」という狂態のシーンに繋がるのだ。主人公の良き理解者になりそうな風情の引退寸前ベテラン刑事ですら、躊躇なく銃口を向けるのである。

 この映画が公開された2019年7月19日の夜、細田守監督「サマー・ウォーズ」が地上波テレビ放映されたことは極めて象徴的なアイロニーである。「サマー・ウォーズ」は正に、調和の破壊を選択する「天気の子」の対極にある、「家族も大人も子供も警察も、みんな一致団結して世界の調和を取り戻す」様を描いたアニメであるからだ。
 その翌日、私はたまたま、ある若き刑事法学者から次の言葉を教授された。「我々は、殺人を犯してはならないという規範を国家から与えられてはいない。殺人を犯したらこういう刑罰を受けることになるという契約を国家と交わしたに過ぎない」そして笑いながら言うのである、「常習薬物犯の人なんかね、本当に幸せそうですよ、見ていると、ね」
 そうだ、何が正しくて、何が狂っているかなんて、誰にも分からないし、誰も正しく判断できやしない。殺人ですら、一義的に狂っていると断定できないのだ。
 
 我々は常に、自分が間違っているのではないか、否、狂っているのではないかと疑問を持ち続ける常態こそが実は「正常」なのではないかと思う。
 「天気の子」では数多くの違法行為、社会規範違反行為、異常な言動が、さほど違和感なく繰り広げられている。我々は常に、被害者になりうるだけではなく、犯罪者になりえ、またされうるのだ。犯罪者とそうでない者の差は紙一重、まさしく〝サイコロの出た目〟が運命だ。
 新たな法律が量産されつづけ、時代が数年違えば問題にすらならないものが違法とされ、何が違法で何が合法なのか専門家ですら断言できず、セーフ・アウトなどという曖昧な言葉で誤魔化す。倫理観すら数年単位で刻々変化する。行動ががんじがらめになっている今日の日本社会。
 むしろ自分は絶対に犯罪者、加害者にはならないと自信を持っている者がいたら問いたい。「被害者」が加害者を断罪すればその被害者は「加害者」になるのだ、ただ社会的に正当化されうるか否かの違いだけである。故意がなくとも不注意による加害によって徹底的に糾弾される時代。法律の無知は罪であり、軽率な行為は一生の終わりだ。そんな時代でもあなたは、自分だけは生涯「正しくない」行動を取らない自信があるのか、と。

 自分は狂っているのではないか、狂っているのは自分の方ではないかと潜在的な不安を抱えて生きている。そんな自分に、「狂ったままの世界(=あなた)でいい」「どうせこの世界、元々狂ってるんだから」と、新海誠から背中を押されたようなものだ。

 

 

 “それでもあの日の 君が今もまだ  僕の全正義の ど真ん中にいる”

 雲の上に取り残されて泣く陽菜は、処女作「ほしのこえ」の美加子だ。世界救済を一身に引き受ける犠牲者は、「雲の向こう、約束の場所」のサユリとも重なる。亡き妻にもう一度逢いたいと願う心を奥深くに沈めた須賀は「星を追う子ども」の森崎、陽菜を包む魚のモチーフは森崎の妻のあのシーンだ。「俺はただ、もう一度あの人に、逢いたいんだ」叫ぶ帆高はまるで、「君の名は。」の瀧が狂ったかのようだ。ビルの非常階段、冒頭からラストまで降り続く陰惨の美は「言の葉の庭」の鮮烈な雨模様を圧倒的に凌駕する。そして最後の言葉「僕たちはきっと、大丈夫だ」は、「秒速5センチメートル」でどうしても言いたかったあの言葉じゃないか。

 「大人達は堕落した存在だと断定することで、責任を回避し、若者達の口からそれでも世界は〝大丈夫だ〟と言わせてしまうなんて、自己欺瞞だ」という批判を目にしたが、「大丈夫」の3文字に込められた深い深い海のような想いなど、理解されてたまるか。新海作品の中で用いられる「大丈夫」は、一義的一般的な「大丈夫」の意味ではないのだ。

 


 狂ったままの世界で、正しいのは「君」、「君」へのこの想いだけ。「ほしのこえ」で美加子は叫んでいた、「分かんないよ」と。「私はただ、ノボルくんに逢いたいだけなのに」。世界平和なんてどうでもいい、ただ君に逢いたいだけなんだと、あの日の美加子をグランドエスケープさせたんだ。このブレない着地点。ただひたすらに何があっても「君」を想い続けるだけの「秒速5センチメートル」のタカキだって、既に狂っているのかもしれない。それでもタカキは幸せだ。

 だから私は思う、帆高、君の選択が正しいかなんて私には分からないよ、だって君は「私」だからね。でも私にとって君の選択は、正しいんだ。

 

 

 新海ワールドのもう一人の語り部・RADWIMPSは最後に問う、

 

 何もない僕たちになぜ夢を見させたか 

 終わり在る人生になぜ希望持たせたか

 なぜこの手をすり抜けるものばかり与えたか

 

 何でもある僕らには夢は既に叶っている。終わりなき人生には絶望しかない。この手をすり抜けるものだから、愛しい。神は何故人間にこんなパラドックスを与えたのか。愛とは、神が与えた罰のようなものじゃないか。

 

 それでもなおしがみつく僕らの姿は、醜いに決まってる。でもその醜い姿の中にある、一粒の真実は“きれい”なんだ。


 


 ラストシーン、桜の花びらが秒速5センチメートルのスピードで舞い落ちる坂の上、陽菜が一体、何を祈っていたかって?
 そんなことは新海信者なら即答できる。「ほしのこえ」から「君の名は。」まで全ての新海作品に繋がるその答えは、「もう一度、君に逢えますように」一択だ。