昨日渋谷駅前で、号外が配布されていたので、とりあえず3部いただいておいた。

 

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今夜の地上波初放送に向けて、盤石の体勢だ。特別エンドロールも放送されるから、私のようにDVD・Blu-ray・アプリフルコンプで本編を暗記してしまったファンであっても、盤石の録画体勢でお迎えしなければならない。
 
エンドロールといえば、先月東京の国立新美術館で開催されていた「新海誠展」。

私は結局、合計5回、会場に足を運んだ。


5回目は、会場の最後のブースでエンドレスで流されているエンディングムービー、これを3回連続で観、そこで私は明確に、全新海作品で提示されたテーマを「今度こそ完璧に」理解した、と思った。

今夜の「君の名は。」放送を前に、新海誠展でようやく掴んだ、新海作品ファイナルアンサーを今一度。

 

 

12月に入ったら、国立新美術館前は長蛇の列で、休日など入場規制がかかり、四重五重にも会場前に蜷局を巻いていた。

「新海誠、こんなにメジャーになってしまったのか・・・」と眩暈がしたが、ご安心を。それは同時開催の「安藤忠雄展」の列なのであった。

あぁ、良かった。新海誠がメジャーにならなくて。・・・と安堵しまくる微妙なファン心理。「俺たちの」「私たちの」新海誠は、知る人ぞ知る存在であり続けて欲しいのだ。

 

にしても最終日の夕方。平日ではあったが、閉館直前だというのに、フツーに入れてフツーに観られるのもちょっと寂しいかも。隣の安藤忠雄展は、平日でもやっぱり入場規制かかってたし。

そして来場者のメンツはと言えば、ちらほら見える明らかに場違いなカップル、ファミリーは無視するとして、比較的頭髪の寂しくなったおじさん、おばさんが“1人で”じっと作品展を観ているのであった。やはり新海誠展はこうでなくちゃね。

 

 

 

新海誠展のエンディングムービーは、RADWIMPSの〝スパークル movie ver.〟の間奏部分、3:30過ぎからの約4分間に載せて編集されていた。数多くの新海作品の中でこの曲この部分を選んだセンス。これを編集したのは、新海自身なのか、そうでなければ新海クローンに違いないと思わせる程のハマり具合だった。掛け値なしに、このエンディングムービーだけで入館料以上の価値はある。

 

それは過去の新海6作品の場面をテーマ毎にくくり、同じ台詞をたたみかけるように繋いだもの。ただそれだけの数分の映像に過ぎない。

しかし、それだけの数分の映像を何度も繰り返し見ていたら、新海作品の謎がスッと解けた気がしたのだ。それまでも、新海作品は結局呆れるほどたった一つの物語しか紡いでいないと気付いてはいたのだが、甘かった。その先があったのだ。

 

これは言の葉の庭の〝Rain〟にのせて編集した、君の名は。公開前のプロモーション。こんな感じのエンディングムービーであるが、これよりも遙かに完成度が高い。
 
これまでの理解として、新海作品は最新作「君の名は。」も含めて喪失後の世界を色鮮やかに描いているのだということ。また、孤独に、ただひとりの宿命の相手を探し続けるだけの切ない姿を美しく描いているのだということ。
せいぜいこの2点に集約されるのだろうと解釈していた。
 
その象徴として2作目の「雲の向こう、約束の場所」の冒頭の言葉が挙げられる。
 
 いつもなにかを失う予感があると、彼女はそう言った
 
この言葉は新海誠展でも壁に描かれていた(純白の壁に、紺碧の文字で書かれているのを見て、ただそれだけで私は泣けた。)。「雲の向こう、約束の場所」では結局、サユリのたった1つの願いは叶わない。最後の最後に流れるヒロキの言葉、“約束の場所をなくした世界で、それでも、これから、僕たちは生きはじめる”こそが、恐らく新海作品の象徴だ。

 

これまで何度も力説してきたことであるが、新海作品は恋愛を描いているようでいて、その実、全く描いていない。恋愛とは大人同士のものであって、大人の手前にあって、大人になりきれない子どもは「恋愛」のずっと手前にいる。

 

ところでつい数日前に聞いたことであるが、日本における離婚率は5割だそうで、残りの5割中、7割もの男性が浮気経験があるらしい。統計には挙がってない女性の浮気率を加えれば、計算上、全ての夫婦のうち1割しか、互いを唯一の相手として添い遂げる事ができないのだという。

その話を聞いた女性陣は「いやいや、仮面夫婦や“気付いていないだけで真の愛情などないのにあると思い込んでいる偽夫婦”も含めたら、ほぼほぼゼロでしょ」と一様に笑う。私もそう思う。一瞬でも他の異性に心を移すことなく、ただの一度も裏切ることなく、互いを唯一の相手として愛を全うする夫婦がいたら奇跡だと思う。それは相手を手に入れてしまった事による自然の摂理である。

一度でも他の異性に恋してしまったこと、裏切りや心代わりさえも夫婦の歴史として飲み込んだとしても、一度汚れた純白の絹地は二度と元には戻らない。唯一の相手に恋をし続けていたら、決して他に恋をしないものだからである。つまり、そんな事が一瞬でも起きたなら、既にその相手は唯一の相手ではないということが判明したに過ぎない。

 

そして仮に奇跡的に想いが叶って結ばれ、恋が続いたとしても、全ての人間は最終的には別れて終わる。ひとり残らず。

それが「死」である。

 

 喪失を抱えて、なお生きろと声が聞こえた
 それが人に与えられた呪いだ
 でもきっと、それは祝福でもあるんだと思う

 

これは「星を追う子ども」の最後のことばだ。森崎は死んだ妻にもう一度会いたいと願い続け、黄泉の国・アガルタへ続く道を探す。しかし、「死」という名の喪失は、人々に等しく与えられ、決して逃れることはできない。

 

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新海誠展のエンディングムービーは、“私だけが、世界に一人きり、取り残されている そんな気がする”からスタートしていたと思う。そこでは「世界」がキーワードだ。新海作品の住人が発した「世界」という言葉を含むセリフを繋ぐ。その「世界」とは、一人きりという「孤」から始まる。「孤独感」がその深淵にある言葉。そして彼らはみな「ただ君に生きていて欲しい」と、それだけを願う。彼らの「」。新海ワールドの住人はどこかで必ず、涙を流している。孤独から来る涙である。彼らが泣いているシーンを次々繋いだ後のキーワードは「」である。夢の中で、逢っている。夢の中で、探している。夢はいつかは消える・・・それでも皆、夢の中で探すことを止めない。「ずっと」「誰かを」「探していた」・・・かように叫ぶのは三葉だけではない。新海ワールドの住人はみな、いつも誰かを、ずっと誰かを、心のどこかで探し続けているのだ。

「ノボルくん」、「ミカコ」、「サユリ」、「ヒロキくん」、「アカリ」、「遠野くん」、「アスナ」、「シュンくん!」、「ユキノさん」、「秋月くん」、「三葉!」、そして「瀧くん!」・・・

6作品全ての住人が、互いの名を呼び、叫ぶ。遂に彼らは「孤」を離れ、いつもどこかで、夢の中でも、ずっと探し求めていた相手に出逢うのだ。

 

ところがその後続く言葉はこれである。

 

「ありがとう」

「ごめんね」

「さよなら」

 

ありがとう・ごめんね・さよなら。この順番には意味がある。

もしかしたら人が、人にかける究極の言葉は、この3つに集約されるのではないだろうか。というよりもきっと、人は他人と心の交流をする時、この3つ「のみで」足りるような気がする。

ようやく出逢えて、「ありがとう」。気持ちが嬉しくて、「ありがとう」」。想いに応えられずに、「ごめんね」。先に旅立ってしまって、「ごめんね」。そして、「さよなら」・・・人は結局のところ、たった一人の相手にめぐり逢えたとしても、必ず喪失するのだ。喪失、その甘美な痛みを抱えて、それでも人は生きていかねばならない。

 

エンディングムービーは確か、「雲の向こう、約束の場所」の最後の言葉・・・約束の場所をなくした世界で、それでも、これから、僕たちは生きはじめる・・・ を、最後に残して終わる。

 

そしてフィルムに映し出される最後の新海のことば、・・・そんな世界を、好きだと思う。すなわち、喪失を抱えて孤独に生きることの肯定だ。

そもそも永遠に手に入らないものしか、人は永遠に愛することはできないのであれば、喪失を抱えて生きることこそ至上の美を運命付けられているのではないのか。

 

 

「言の葉の庭」マーケティングプレスで、新海は自身の作品を、「家族向けではなく、一人で観たい作品。他の多くのアニメーションのように、家族や人との絆の素晴らしさを描いた作品でもないし、労働や共同体の暖かさを描いてもいない。そのずっと手前で立ちすくんでいる個人を描いた作品」と位置づけ、このように続けている。

 

 しかし、誰もが社会に属する前は個人だったのです。家族や社会的地位を獲得する遙か手前で、孤独に立ちすくんだことがあるはずです。(極論すれば、そういう経験のない人にとっては娯楽メジャー以外のアニメーション作品は本来不要なのです。)

 

私はこれを読んで、ようやく自分が新海作品に本能的に惹かれてやまなかった理由が分かった気がした。

私には、自ら命を絶った親友がいる。私宛の遺書には、“あなたは私に、「人間は絶対的に孤独である」と言いました。それが本当ならば、私たちは親友ごっこをしていたにすぎなかったのです。”という言葉があった。私はそれから30年間ずっと、彼女が遺した問いに対する答えを探してきた。

どれだけ多くの友達に囲まれても、どれだけ良質な友達に恵まれても、家族を得ても、社会的地位を獲得しても、どうしようもない寂しさがどうあっても消えることがない理由、その答えが新海作品にあったのだ。

 

“どうしても想いが届かない時でも、俯瞰してみれば、人は、美しい風景に包まれている。”(「秒速5センチメートルのパンフレットより)・・・この言葉に救済された人は多いだろう。誰しも喪失を抱え、それでも生きている。そして「君の名は。」のラストでようやく再会を果たす二人、あれは来世に託した夢であり、自分自身を映したパラレルワールドでもある。だから私は今でも、その甘美な痛みに耐えきれず「秒速5センチメートル」を観ることができない一方で、「君の名は。」は何度でも観ることができるのだろう。

 

 

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2019年 夏

スペシャルムービー、一部改変の上、公開。