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ま~たこのポスターかよ。。。と思わないで欲しい。これは新海誠展公式ポスターを「購入」して、「自宅」に貼ったものを撮影したものなのだ。35年前に自室の全ての壁を、当時愛して止まなかった“ヤマト”“999”そして“あしたのジョー”のアニメポスターで埋め尽くし、遂には天井まで隙間なく貼った末に家族に狂人認定された私。そこでドラッグが抜けたようにハタと目覚めては「アニメファン」を止めて以来なのだ、「アニメのポスター」を貼る、なんてことは。
眠れるオタクの血を35年ぶりに目覚めさせてしまった新海誠、恐るべし。
 
 
全ての新海作品を何度も見ているのに、今更新海誠展に通い詰めなくてはならない理由は何か。
それは、一つ一つの作品を単体として捉えるのではなく、全作品の共通項を“横断的に”捉え直す事で、より深く新海作品を理解すると共に、全体をひとまとまりにした新海ワールドにどっぷり浸れるから、に他ならない。
 
作品展では最高のファンサービスとなった、プロローグムービー&エピローグムービー。特に全作品共通の泣けるワンフレーズワンカットを拾って編集した、エンディングムービーは何度でも見たいし、映像販売化を心より希求したい。そしてこれを見ると、すべての新海作品が驚くほど単純なたった1つのテーマしか描いていない事に、改めて気付かされる。
 
それは“言の葉の庭”の、新海自身が書いたプレス用らしきテーマ解説に示されている。「万葉の時代、大陸から来た言葉を日本人は別の漢字に置き換えた」「“恋”は“孤悲”に置き換えられた」「だから日本にはかつて愛も恋愛もなく、恋だけがあった」・・・そういえば最近私は、“愛”という言葉がなんだか不純なものに聞こえてならないのだ。どことなく漂う打算の匂い。まるで印籠のように“愛”を出せば無条件にひれ伏すとでも思っているのか。愛の定義が人によって違うというのも胡散臭い。
だけど“恋”は違う。“恋”は神が人間に与えしプログラムエラーであるから、程度の差はあれ、定義は全人類共通だ。あの、脳に作用する中毒症状というやつだ。人々の口に愛という言葉はしばしばのぼるが、恋という言葉は口にされない。恋は本能だから、計算の入る余地がない。だからある意味、愛よりもずっと、純粋である。
 
ちょっと考えてみて欲しい。
 
「愛している」と言われたら、反射的に「え、マジか?」と思わないだろうか。その「え、マジか?」はどこかに疑念が入っている筈である。
しかし「恋してしまった」と言われたら、反射的に「ええっマジか???」と思わないだろうか。その瞬間、「うわマジかヤバい」(引いている)だろうが、「マジか嬉しいヤバい」(惹かれている)だろうが、ただ絶句して唖然していようが、相手が抱く「恋」という感情に疑念は抱いていない筈である。少なくとも、「愛」よりは。
考えて見れば当たり前なのである。人は「愛」という概念に、解釈を差し挟むからである。「愛するべき」といった道徳論を持ち出してまで、人は愛を解釈しようとする。だからこそ「愛」は人の数だけ解釈があり、ある人にとっては「愛」でも、別の人にとっては「愛」ではないということなどが有り得る。
また「愛」の対象は異性とは限らない。個人であるとは限らない。究極人類愛もまた「愛」であるし。
 
つまり恋は、愛よりも圧倒的に純粋である。
 
・・・なぁんていうことを、展示物を見ながら考えていた。そうか、かつて日本には愛も恋愛もなく、「恋(孤悲)」だけがあったからなのか。
 
だけど恋に落ちている時、それも初めての恋で、相手に抱く感情が「恋」だとはなかなか認識できないし、相手に告白するのに「恋してます」はないだろう。よってこの、相手を悲しいまでに請うる切ない心情を表現する日本語として、「好き」という言葉が選ばれる。新海作品では告白は全て、「愛」でも「恋」でもなく、「好き」という言葉で表現されている。相手の「名前」を呼び続けながら。
 
新海監督が影響を受けたという新世紀エヴァンゲリオンもそうであるらしいが、世界を揺るがす大惨事の中にあって、描かれるのはあくまでも「個人」であるということを貫いてくれているのが「君の名は。」なのだ。彗星が衝突し、1つの街が人間が消滅するというのに、そうさせないために東奔西走中、三葉が突然叫ぶのだ。「あの人の名前が思い出せないの!」「そんなんどうだっていい!」テッシーがぶち切れるシーンだ。世界と同時に動き出す、2人の恋。掌に書かれた「すきだ」の3文字。「君の名は。」で私が最も好きなシーンが、スパークルを背景に、「街を救う」と言いながら「あの人は、誰?大事な人、忘れちゃダメな人、あの人は・・・」と完全に個人の世界に入っているシーンだ。あの名曲「スパークル」を、エンディングムービーのBGMに使ったのは、尺の問題もあったのかもしれないが、大成功じゃないだろうか。この夏、鍛え上げた私の涙腺を以てしても、完全敗北でしたよ。
 
 
もう一つのハイライトは、作品展の最後、エンディングムービーの手前に配置された「キーワードで読み解く作品世界」である。これは新海6作品を、6つのキーワードで横断的に分析することで、世界観をお見せしようという試み。新海ファンならそのキーワードはどれも「新海あるある」で、納得の6要素。
先ずは「メール等電子コミュニケーション」。新海作品の男女は大概、大事な事は殆ど全てメールで伝えている。いや、伝えようとしている。そして結局それは最終的には、伝わらない(伝えない)のだ。メールが悲劇の象徴とは。
「電車のある風景」。とにかく新海作品といえば電車、列車、線路である。これは挙がっていなかったが「教室」も欠かせないキーワードなんだけど。教室と同じ位、電車のシーンが多い。主人公を乗せてすれ違ったり、会いに行ったり、会えなかったり。まるで人生だ。
「カタワレ時」も外せないキーワードだ。夕暮れ時を背景にすれば、いかなる2人であっても美しい絵になる。たとえ別れを告げるシーンであっても、想いが伝わらないシーンであっても、カタワレ時は、「魂の片割れ」に触れるという奇跡が起きる時間帯だ。
「階段のある風景」「男女が雨宿りする場所」、そして何と言っても新海作品の真骨頂は「すれ違い」である。2人が気付かぬまますれ違うシーンが最大のクライマックス、という作品は、大林宣彦の「時をかける少女」位しか思い出せない。
 
こうして並べると、新海作品はとにかく「ないない尽くし」だ。正に「孤独」に「悲しい」と書いて、「孤悲」の世界。誰もが孤独で、そして、悲しい。
 
そして新海作品の背景の美しさの理由は、「秒速5センチメートル」のパンフレットに記載されていたという、「人はどうしようもなく伝わらなくて悲しい時でも、風景の美しさで救われることがあると思う」「そんな悲しい思いを抱えた姿を一歩引いて俯瞰して見れば、美しい風景に包まれている」言葉で明かされる。孤独に悲しみを湛えて生きていても、それでもそんな自分は美しい世界の一部なのだと、そんな世界を自分は、“好きだと思う”。
 
 
すれ違った2人を移した後、カメラはパン、と空へ向ける。そこにタイトルバック「君の名は。」ラストシーンは、青い空だ。
 
なぜ人は恋をすると、空を見上げてしまうのだろう?
それは、空だけが、ふたりを繋げる唯一の空間であると,無意識に分かってるからじゃないか。空だけが、2人を繋げるから。この空の向こうにいると、空を見上げる。空の向こうで通じている。孤独に、悲しい、孤悲だから。それでも世界は美しい。そんな世界を、自分は、好きだと思う。