アメンバー申請をお受けするようになったここ2~3ヶ月の間に、更に多くの方から、様々なご経験談をお寄せ頂くようになりました。どの方も個性的な独自の経験でありながら、その経緯と想いはほぼ一つに集約されます。
その都度、他の皆様も、同じ想いを抱いておられますよ、その想いは間違ってなどおりませんよ・・・とお伝えしていたのですが、ここでもはっきりとお伝えいたします。

スピリチュアル思想は、人間の編み出した、数多ある思想や哲学の一つに過ぎないにもかかわらず、なぜこの思想を持たない者をかくも苛立たせ、傷つけ、そして嫌悪されるのでしょうか。このテーマに沿って過去何回かに渉り、皆様のご経験談を踏まえて、私の考えた事を書いて参りました。

最初に私は、結論としてこのように書いたと思います。

自分が未熟者に過ぎないのに、自分が信じるスピ思想に基づいて、上から人々を裁き、見下し、排除しているから、嫌われる。

そしてこう続けました。

①宗教ではないふりをするので、逃げ場を与えない

②「二極化」という言葉で目覚めた「スピリチュアル」と目覚めない「アンチスピ」に分け、目覚めない者を排除する


もしもスピリチュアル思想が、「宗教」だとしたらどうでしょうか。ここは見落としがちな大事なポイントだと思います。

「宗教」だと思えば、それを信じるか信じないかは個人の自由です。場合によっては、その宗教を信じている者を異端視することも世間にはよくあることです。スピ漬物が語る言葉も、「あぁ、また始まった」「宗教だからね」の一言で済ませることができます。「宗教だから」とは、自分とは全く違う価値観、世界にいることを承認することで、自分と相手が拠り立つフィールドを、容易に分断することができる概念です。

ところがスピリチュアル思想は、「宗教」ではないと言い張っております。実際、宗教とは似て非なるものですが、むしろ「カルト宗教」に近いという指摘は以前致しました。
スピリチュアル思想は、他の相容れない思想を受け入れません。なぜなら、「真理は一つ」だからです。もちろん他の宗教も同じ、「真理は一つ」です。

しかし、受け止める側として、それが「宗教」である場合、その宗教を信じないとしても、心はざわつかないのです。「あなたが信じている真理と、私が信じている真理は、違う」という状態を、心穏やかに受け入れることができる。なぜなら相手のそれは、「宗教」だからです。

一方、それが「宗教」でないならば、その思想が説く「真理」を受け入れられないことに何故か罪悪感を感じてしまいます。自分が愚かなのではないか・自分が未熟なのではないか・自分の心が穢れているのではないか・・・そのような思いに囚われてしまうのです。スピリチュアルが意外にも「信じる」という言葉を使わないのも、宗教とは異なる特徴的な点です。スピリチュアル的には、信じるも信じないもないのです。真理はそこに「在る」だけで、それに「気付くか、気付かないか」あるいは「受け容れるか、受け容れないか」だけなのですから。
宗教が「信者」という言葉を用いて「信仰」を基軸とするのに対し、スピリチュアルは「信じる」という言葉の代わりに「気づき」「悟り」「受け容れる」「覚醒」「意識する」などという言葉を用いて、スピリチュアル思想の世界に招き入れようとするのです。

しかも追い打ちをかけるように、スピリチュアル思想を持つ者は、それが「単なる価値観、世界観の相違」に過ぎないことを認めていないばかりか、「真理に到達している自分」と「そうではないあなた」という関係性の中で、意識的・無意識的に相手を責め、見下して来ます。これは大きなプレッシャーになります。本当は、そのスピリチュアル思想すら、単なる一つの思考に過ぎず、それが真理であると思い込んでいるだけなのに。


スピリチュアルについてあれこれ友達と議論していた時、最後に友達はこのように言い放ちました。
「結局、宗教みたいなものじゃない。オウム真理教と同じなのよ」
そう言った後、二度とスピリチュアルについて議論することはありませんでした。友達はそのように結論付けることで、スピ思想と自己の分断に成功したのです。

最近いただいたメッセージの中にも、スピ漬物から罵倒・非難されたり、相容れないと感じる自分が悪いのかと逡巡したり・・・などという経緯を書いて下さった方が何人かいらっしゃいました。そして、ある方は、かつてはあちらの世界に行かれない自分を責めていたが、最近そうではなくなったという心の内を、このように表現されました。

 
 
   「しかし最近になって、あれはある種宗教的ですらあるとも思うようになってきました。」



やはり人は、「あれは宗教と同じ」と思う事で、心の平穏を得ることができるのだと改めて確信いたしました。スピリチュアル思想は宗教と同じなのです。それも、カルト宗教です。
ですから、その思想を受け入れる事ができないのも、違う世界観を持っていることも、肯定していいのです。だって、あれはただの宗教ですから。信者でないあなたが、その教えを受け入れることができなくてもいいのです。
たとえ彼らが、「宇宙の意思、宇宙の真理は一つ」だとして迫ったとしても、それが胡散臭いと感じるあなたの感覚はむしろ正しいのです。それは宗教勧誘と同じですから。
スピリチュアルが嫌いであってもいいのです。あなたと彼らとは、同じフィールドに立っているのではないのですから。一人一人が教祖の、一人カルト宗教なのですから。







つい、メッセージをお寄せ下さった方々に向けて、私まで偉そうに断言口調になってしまいましたが、もう一点だけ、はっきりと指摘させて下さい。


以前もご指摘した通り、スピリチュアル思想を拒絶する時、心のどこかで罪悪感に囚われる方が多いのです。自分の方が間違っているのではないか、自分の心が穢れているのではないか、と。

実は私もそうでした。

ハワイのヒーリング「ホ・オポノポノ」をご存じの方も多いことでしょう。ありがとう・ごめんなさい・許してください・愛しています・・・この4つの言葉を「自分自身に」語りかけることで心の浄化が行われるのだそうです。
正直に告白しますと、この4つの言葉を自分自身に心を込めて話しかけるのだと聞いて、私は気持ち悪いと感じまして、次の瞬間、「気持ち悪いと感じる自分は心が清らかではないのか」と後ろめたい思いになりました。

それから様々な方に、ホ・オポノポノについてどう思うか、片っ端から聞いてみました。
そこで伺った感想や、他の経験から、はっきりと分かった事があるのです。


ホ・オポノポノに限らず、スピリチュアル的思想の中核は、「受容」です。ありのままの自分を「許す」ことです。他人ではなく、自分自身を、です。

「ありがとう」「ごめんなさい」「赦して下さい」「愛しています」・・・これらの言葉を自分自身の魂に語りかける、すると、心が浄化される・・・この方法は、スピリチュアル的思想の核心を突いています。

「それらは、自分に言う言葉じゃない。他人に言う言葉じゃないか」

ある友達の感想です。この感想もまた、象徴的です。スピリチュアルは、徹底した自己中心主義であり、常に意識を自分自身の内面へ内面へと向けているので、「他者」とは自分のフィルターを通した存在でしかありえず、または宇宙(神)が自分の学びの為に用意してくれた材料としての存在にすぎない、と認識されます。
ですから、他人に言う言葉である筈のこれらの言葉を、自分自身に向けることこそがスピリチュアル的発想なのです。


そして、これらの言葉を自分に向けなければならないのは、自分自身を受容できず、自分自身を愛することができず、この世に生を受けたことを感謝できず、自分自身を許せないからです。
つまり、スピリチュアル思想にピタッとはまる人というのは、愛と感謝と赦しが自分の内に存在していない人なのです。自己愛・自己肯定と他者への感謝の念がない人。そういう人が、スピリチュアル思想を必要とするのです。


これは特別な考え方でも何でもありません。宗教も同じですから。

心の状態が完璧な人に、宗教は不要です。信仰と教義によって、自らの弱い部分、不足する部分を補い、支えるのが宗教です。

若い頃、シスターから聞いた話です。当時のフィリピン(国民の9割がカトリック信者)は治安が著しく悪く、子どもでさえも、盗み・かっぱらいが日常茶飯事だと。でも、その子達は胸を張って言い放つのです。「だって僕、神様のこと愛してるから、天国に行かれるんだもん」
これは、カトリックにおいては信仰心が最も大切だという話の喩えでしたが、世界的に、社会秩序が平穏でない国ほど、特定の宗教を信仰する者の人口比が高い傾向があることは事実です。
日本人に「無宗教」が多いことと、日本の治安が他国と比べて著しく安定していることは、無関係ではないと思います。私は、「国民の内に道徳が欠乏しているからこそ、道徳ニアリーイコール宗教、が必要なんだ」と考えています。


自己肯定の絶対的信頼が自分の内に無意識的に存在している人にとっては、自分自身に「愛しています」「赦して下さい」と語りかける必要がないばかりか、それは気持ち悪いことこの上ないのです。


スピリチュアル信奉者が、「愛」や「感謝」や「赦し」の言葉を恥ずかしくなるほど濫発するのも、自己に、それらが備わっていないからではないでしょうか。
私はそう思います。

スピリチュアルが嫌いだと感じる人は、彼らにないものを既に備えている(欠如しているという意識がない)から、相容れないと感じるのです。見下され、否定され、排除されても一向に気にすることはありません。

愛がないのは、あちらの方なのですから。