「学び」や「気づき」という、「連用形の名詞化」の中で特にこの二つの言葉が「嫌い」という人が多い。
周囲にそれとなくインタビューしてみると、「私も嫌い~!!」という人は、スピ系で嫌な思いをした経験のある「嫌スピ」だったりする。

私も1年前から突如として嫌いになった言葉だが、私のように「虫酸が走る」とか、人によっては「殺意を覚える」といった過激なレベルから、「なんとなく違和感を感じる」といったレベルまで様々だが、
何故嫌いだと思うのか、理由を色々考察している人々がいる。

それらを一つ一つ分析すると、大きく分けて理由は2タイプある。

一つは、国語の文法的に気持ちが悪いというもの。日本語の使い方としての問題。新しい造語の部類に入るらしいし。
どうだろう、いきなり「気づきをもらった」とか言われて、違和感を感じない人はいないんじゃないだろうか。
普通は「学んだ」とか、せいぜい「気付かされた」と言うところ、「気づきを得た」だとか、「学びを得た」と言われて、何その日本語?と耳を疑わない人はいないと思う。使ってる本人は平気で使いこなしてるけど。

もう一つは、その言葉の中に、自分が一つ上の次元(ステージ)に立ち、その立場から(つまり、人として学びや気づきを得た自分というものを肯定的に捉えると同時に、その言葉を投げかける相手を上から見下ろしている立場から)発せられた言葉のような気がするということ。

で、大概「嫌い」という人の理由は、前者+後者か、後者のみかのどちらかなのだ。
文法的におかしいから、新しい造語だから違和感がある、というだけで、その言葉を嫌うことはないようだ。

一応私の結論としては、主体性も意思もない言葉によって、学び、気付くという尊い人間の営みを冒涜されたかのような気がするから。というものであったが、これもまた、自身の言葉を噛み砕いて言えば「レベルの低い学びや気づきなんかで偉そうな口効くな。どうせこっちは、学びも気づきも得られませんよーだ」みたいな、僻みも混じった感じかと。


しかし、実際、たとえばある人から、

「私は、○○ということを学んだ。」とか
「○○ということを学ばされました」

と言われたする。

この言葉の中には、「○○」という目的、「学ぶ」という主体性、あるいは「学ばされた」という、愚かだった自分を反省する響きがあり、非常に謙虚な印象を受ける。


ところが

「私は学びを得ました」
「この学びを人生に活かしたい」

と言われると、大分ニュアンスが変わる。

この時使われる「学び」は、「悟り」に近い。
やや乱暴な言い方になるが、それが一般的にはたいした学びではなくても、「私は精神的にランクが上がった」と宣言されてるような響きがある。


それでもまだ「学び」は、言葉としての歴史もあるせいで、違和感がない使い方もある。

「4年間で得た多くの学びを、社会人としても忘れず頑張っていきたい」

大学卒業時、大学の恩師への年賀状等として「あり」な文面だ。
結構便利な言葉でもある。目的語なく「多くのことを学んだ」では、何となく「で、何を学んだの?」と突っ込まれる余地があるが、「多くの学びを得た」だと、「学び」それ自体が学んだ内容を含んでいるので、何故か「何を?」とツッコミにくく、しかもちょっと高尚な響きがある。
(私も今一瞬、来年の恩師への年賀状に使ってみようかな、と思った程)

ここ、ここに多くの人が感じる「違和感」の原点がある。

「内容を含んでいる」ことにより、焦点をぼかしつつ、しかもちょっとランクが上っぽい響き。
便利だけど、狡い言葉だ。



一方、「気づき」は暴力的でさえあると思う。
この言葉を発している本人は全く無自覚だと思うのだが、

「気づきを得ました」

これはもう、イコール「悟りを得た」と同義と言っても良いだろう。

「学び」に比べて「気づき」は歴史が浅く、汎用性もない。
「気づき」ときたらそれは、「得る」というよりは実際の意図としては「もらう」「いただく」ものとして使われる事が多い。
「学び」よりも更に、意思や主体性を失っている言葉だ。

そして何だかよく分からないけど凄いことを「気づき」、それを「得た」というのは、
何だかよく分からないけどその凄いことを得た私の魂のランク(ステージ)は上で、まだ「得ていない」あなたは、下。言った本人が必死で否定しても、無意識にそんなメッセージを含んでいる。
言ってる本人は恐らく全く自覚してないから、言われてるこっちが不快に感じているなんて夢にも思ってないだろう。

ある人のブログ記事に、気づきを得たとか言われると
「馬鹿に馬鹿にされている気分を存分に味あわされる」
と書いてあったが、それを見た瞬間、もう本当に何様なんだと思われることを承知で正直に言ってしまうと、胸がスッとした。
相手を見下し、馬鹿にしているのはこちらだと思われるかもしれないが、「気づきを得た」と言われて「けっ」と思ってしまうその根拠を示すと、①気づきの内容をきちんと示して言われたことがまずない ②それなのにその内容をあたかも悟りの如く扱い、陶酔しているから。
どなたかのブログで「気づきの内容は語っている本人は分かっていて、こちらには最後まで全く分からない。そこに見下されているような構図がある」と分析されていた通り。

本来は、「今まで気付いていなかった自分が馬鹿だった」
という反省を含むのが「気付く」という言葉、あるいは
「今まで学んでこなかった自分が愚かだった」
という無知への恥じらいを含むのが「学ぶ」という言葉なのだが、
それが「学び」「気づき」という内容無問題の造語には、これらを一切感じさせることなく、
「学びや気づきを得た自分は素晴らしい」
と、100%ポジティブな自分賛歌に酔える魔法の言葉、それが「学び」と「気づき」なのだ。

とすれば、ネガティブ体質な人には、この言葉を使わせるセラピーが効果的かもしれない。
ところが、この言葉を実際使ってる人の多くは、セラピストの立場でものを言ってるから、うんざりしてしまう。


そして、「本物」は、「学び」も「気づき」もない。
以前、辛酸なめ子(この人はスピに造詣が深い)のコラムで、ダライ・ラマ14世が来日時、スピ系の自称脳科学者にさり気なく利用されようとするのを、ウィットに富んだ回答で、しかしピシャリと拒否った様子が書かれていて、それもまた爽快だった。
まぁ、自分が尊敬する人・尊敬すべき偉人の口からそんな言葉が出てきたら、その時に考えを改めますわ。

要するに、人の一生の中で起こりうる最も悲惨で不幸な出来事についての「答え」を用意することのできない「教え(宗教を含む)」はすべて、ただの精神遊戯にすぎない。
だから私は、そういう世界に身を置いて上から見下ろし、少しだけ不幸な出来事を抱えながら迷える人々を取り込もうとする者を、唾棄する。



そう思いながら、時折検索ワードに入る「学び」「気づき」「嫌い」という三つの言葉を入れて検索してみたら、

「なぜあなたがその人を嫌いなのか、日々の学びの中で気づきを得ましょう」

みたいなページが山ほど出てきて苦笑した。

「なぜ私が『学び』『気づき』という言葉が嫌いなのか、日々の学びの中で気づきを得・・・」

るわけないだろう(笑)



ただ、どうやら「学び」「気づき」という言葉は、「嫌い」という否定的なイメージ(他者だったり、セルフイメージだったりする)が必ずセットで出てくるということには気付いた。
普段からポジティブにアクティブに人生をクリエイト出来ている人にとって、「学び」も「気づき」も無縁だ。だからこそ流行り、蔓延していく素地がある。だって、常にポジティブ&アクティブに人生を生きてる人なんて、どこにもいないから。


確か、どちらの言葉も英語の心理学用語の翻訳が出所だったから、他者とのかかわりを通して、自己の内面を分析するカウンセリング手法を、スピリチュアルや自己啓発系がパクったというのがホントのところなのだろう。
まったくもって心理学ってやつは、利用されやすい学問だ。大学の専攻が心理学だったせいもあり、情けないなぁと溜息ばかりだ。



3月4日追記:人から聞いて分かったのだが、プロテスタントでは「悟り」を「気づき」と翻訳しているらしい。「悟り」は言葉でもなく思考でもない天啓だから、スピが「気づき」の延長線上に「悟り」を置いているのは間違いないと思われる。「気づきがキモイ」と言う多くの人が「気づき」≒「悟り」ということに気付いており、「気づき」=「高次元上昇」という指摘もあり。アンチなのにかなり正確にスピリチュアルを理解していた自分が怖い。