「学び」と「気づき」。

私はこの言葉が虫酸が走るほど嫌い。
いや、この言葉に罪はないのだが・・・
最初は何とも思わなかったが、前回の記事を書く為に、一応主要スピリチュアル・カウンセラーのHPを巡回してみて、やたらこの言葉が氾濫しているのに違和感があり、
目にする度に違和感が不快感になり、しまいには嫌悪感になってしまった。
そういえばハマった友達の書く文章にも、この二つが散見されたなぁ・・・。

「学び」と「気づき」。日常会話でこの二つのフレーズが出てきたら、要注意。その人は今、急激にスピリチュアルにハマってる。警報機みたいなものだと思っていい。初心者が警戒心なくやたら使いたがるフレーズだ。手練れのスピリチュアルは、なかなか尻尾を出さないから、意外と口にしない。

それで、この二つの言葉だが、たとえば「人生は学びと気づきの連続だ」みたいに使うらしい。
スピリチュアルだけじゃなく、自己啓発セミナーでも常套句なんだそうだ。
「学習」とか「経験」とか普通に言えばいいものを、「学び。」
「気付いた」とか「分かった」とか普通に言えばいいものを、「気づき。」
気づきって何だよ気づきって。何に気付くのかさっぱり分からないし、そんな言葉があること自体、はじめて聞いた。何だったらスピ系が大好きな「覚醒」でもいいよ、その方がまだ分かる。
これ、文法上「連用形の名詞化」っていうのだけど、この言葉というか言い回しに、不快感を覚えるのは何も私だけではない。

予備校の現代文の先生のブログに、その理由がズバリ書かれていた。要するに、「学ぶ」も「気付く」も「他動詞」のくせに、目的語の置き場がなくなるので、内容がなくなるというのだ。

 「何を」「何に」という内容ではなく、「学んだこと」「気付いたこと」という行為自体が中心となる。即ち、内容はどうでもよくて、学んだ、気付いた行為それ自体で満足していることが薄っぺらさを感じる・・・

その通り!流石、現代文の先生だ。

でも私の不快感は更に感覚的で、理屈では説明しきれない。
あれだな、ほら、響きが、何かに似てるんだ。
「癒し」だ。「学び」「気づき」「癒し」、みーんな、子音が「i」。
子音が「 i 」で終わると、「で、続きは?」と聞きたくなるような、収まりの悪さがある。
お任せというか、相手に続きを委ねる響きがある。
「学ぶ」「気付く」という言葉には、意思の存在を感じさせるのに対し、
「学び」「気づき」には、意思というものを感じない。
つまり、「学び」も「気づき」も「癒し」も、言葉の持つ響きとして、
主体性のなさ、意思のなさを感じるのだ。
「癒し」はいいよ「癒し」は。癒しは、癒「される」ものだからね、元々主体性のない言葉なんだ。
これが主体性を持って強い意志の下で「癒す」になったら、そりゃヒーラーだ(笑)
でもね、「学ぶ」「気付く」って、人として非常に大切な過程だよね。人が人であるが所以、みたいな。とても崇高な営みなんじゃないか?
何を学び、何に気付くかという「内容」こそが最も大切であるし、主体性なく「学び」「気づき」なんかされちゃたまらないものなのだ。
スピリチュアルが「学び」「気づき」をまき散らせばまき散らす程、人としての真の「学び」を冒涜され、辱められるような気がしてしまうのだ。

いや、もしかしたら・・・
「学び」も「気づき」も、自分の意思の力ではなく、神の力だか宇宙の意思かなにかで?学ばされ、気付かされるという意味で使われているのかも知れない。だとしたら、私の分析はドンピシャリ。大正解ということになる。
それでも私の深~い不快感は消えないけどね。



2013年4月17日追記
最近更新していないにもかかわらず、物凄い数のアクセスがあるので調べてみたところ、こちらの記事を紹介されたツイートの存在を知りました。特に、中央の太字部分に共感して下さった方が多いようですが、この太字は文中にあります通り、予備校の現代文の先生のブログで考察されていた一文を要約したものです。私の言葉ではありませんので、改めてこちらにてお知らせさせて頂きます。1年後にこちらの記事の続きを書いておりますので、併せてご覧いただけましたら幸いです。