コロナ下が示す「適性」 | かのっちのブログ

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エッセイのように、散文のように

 東京オリパラも終えて、街はひと段落というところかもしれない。コロナ下において言われ続けているソーシャルディスタンス。これが何を物語っているのかを考えた。それは「適性」である。

 東京2020の開幕に合わせて国立競技場が新しくなった。50000人収容であった競技場であるが、新国立競技場は68000人の収容になる。建設された場所は変わらないことから、以前の土地にプラス18000人を入れようとしての建設になる。土地が同じで人を増やすには、席の間隔を狭くするか、3階席を作って高くするという方法になる。前の席との間隔も狭くなるかもしれない。これではソーシャルディスタンスは取れない。

 そもそも、なぜプラス18000人を収容する必要があるのか。たくさんの人にオリンピックの感動を見てもらいたいという趣旨もあるだろうが、収益に関わることは間違いない。たくさんの人が入れば入場料収入を上げることができる。この収益というものが目的になっていないだろうか。

 考えてみると、映画館も、劇場も、大きな収容施設も隣との距離が近すぎる気がする。前の席とも近くて、脚を伸ばすこともできないことが多々ある。これはたくさんの人を入れたいという思いが優先した考え方のように思う。それは多くの収益を望むことで、観る側の感覚というものを無視していることになる。この背景には「武道館を一杯にした」や「東京ドームを一杯にした」などの神話なのか、伝説なのかが主催者のステイタスになっているところがあるように思われる。そして、一杯になればそれなりの収益が得られることになる。気持ちよく観戦したいという観る側のことを置き去りにしているように感じる。68000人を入れることが、観る側の適性な数になっているのだろうかと考える。

 この適性は学校現場にも当てはまる。以前と変わらない教室の大きさの中に、体の大きくなった子どもたちが大きくなった机と一緒に入っていたら、教室が狭くなるのは当たり前である。そして、狭くなれば危険な状況も増えてくるだろう。これに対して、文部科学省は35人学級にすると言う。果たして35人学級が適正なのか。見る限りでは30人でも良いし、30人でも多いような気がする。しかし、ここで30人学級にすると教員を増やさなければならなくなり、それを財務省が許してくれるのかと言うことになる。文部科学省と財務省のせめぎ合いになる。けれど、将来の日本を背負っていく子どもたちの立場に立っての議論はない。変わらない面積に、大きくなった子どもと大きくなった机が入って、35人は適正なのだろうか。

 コロナ下でソーシャルディスタンスが叫ばたが、ソーシャルディスタンスは私たちに適正な数を再考させているような気がする。収益を上げるために詰め詰めで入れていた数が、本当に適正だったのか。前後左右の距離があり、ゆったり楽しめる観客席ではいけないのだろうか。ゆったり座れる児童生徒の数ではいけないのだろうか。そんなことをソーシャルディスタンスは私たちに問いかけていると思う。