
見慣れたソウルの夜景が、あり得ないスピードで窓の外をよぎっていくのを、自分でも驚くほどの冷静さでぼんやりと眺めながら、テヨンはあの日を思い出していた。
歓声沸く大阪城ホールをひとり後にし、ヒョナに貸りたコートを翻して駆けだした瞬間。渋滞するハイウェイの只中で、絶望感を打ち消した『Into The New World』の調べ。白馬の王子のごとく現れて、自分を関西国際空港まで運んでくれた大きく暖かな背中。そして、スンナムの握る拳銃から放たれた閃光。気が遠くなるほどの胸の痛み。湧き出した感情。悔しさ。哀しみ。目の前で傷ついたミンスの最愛の人。冷たい光を跳ね返すフロアに、ゆっくりと広がる赤。畏れと、怒り。あの感情は、その瞬間まで、テヨンの人生で感じたことのないものだった。あれが本当の怒りなのか、と思った。あんなにも誰かに憤りを感じたことは無かった。あれほどまでに自分が誰かを憎めるとは思ってもいなかった。あのまま、荒んだ気持ちのままでいたら、自分はどうなっていたのかと思う。心を震わせるような歌なんて、もう二度と歌えなかったはずだ。再び大阪城ホールに戻っていなければ。愛する人を抱きかかえながらミンスが言った言葉が甦る。「・・・まだ、あそこにはお前の帰りを待ってる連中がいる」。あのステージに立ったことで、こうして今の自分が居ると思う。出来れば綺麗さっぱり忘れてしまいたい出来事だったが、一方で“かけがえのないもの”に気付かされた出来事でもある。希望に満ちた未来のことを想うたびに、あの日の絶望と隣り合わせだった日々が甦ってくるのだった。
「・・・間もなく到着です」
自分を迎えに来た名前も知らない軍服姿の男がそう告げ、テヨンは束の間の回想から現実に引き戻された。いつの間にか、彼女を載せた軍用ジープは見た事もない工場地帯を進んでいた。
「ここは?」
そう尋ねたが、男はそれに応えてはくれなかった。
ほどなく大きな建物の前に停まったジープから、言われるままに降りると、テヨンは男の後に従ってゆっくりと歩きだした。静まり返った夜の中、羽織った春物のコートの隙間から冷たい夜気がそっとすべりこんでくる。二人を待っていたかのように、前方の扉が開き、同じような格好をした無表情な男が迎え入れる。微かに漂うオイルのような臭いに混じって、覚えのある香りを嗅ぎつけて、テヨンはそこに仲間たちがいることを悟った。
「メモリーカードの情報によれば、彼らは例のプロジェクトに"BOYS"というコードネームをつけていたようだ」
スチール机を軋ませながら、大柄な男が言う。ウォン少佐である。
「ボーイズ?」
すぐ横のスチール椅子に腰かけていたミンスが聞きかえした。
「Barrage Of Yellow-jacket Systemの略だ…。まあ、"スズメバチの集中砲火システム"といった意味らしい」
「・・・痛そ~」
ソニが思わずつぶやく。すぐ横で真顔のソヒョンも無言でうなずいている。
「"盾"であるところのスーツに対しての"矛"だからな。さぞかし痛いシステムだろうよ」
ジョンヒョンが言う。それを受けてウォンが言った。
「・・・まあ、あまりセンスがいいネーミングとは言えんが、便宜上、逃亡した連中を"The Boys"と呼ぶことにした」
「"ボクちゃん"たち、か。なんか可愛らしいけど」
スヨンが面白くなさそうに言う。
「実際、彼らは怖気づいて息をひそめてる子供同然だ」
そう言いながらウォンが、机から腰を浮かせて続ける。
「だが、それだけに何をしでかすか分らん」
「窮鼠猫を噛む、って言うしな」
ジョンヒョンの言葉に誰もが息を呑む。
隣にいたユリに小突かれて、ジェシカがそっちを向くと、眉間に皴を寄せたユリが声に出さずに訊いてきた。
(・・・どういう意味?)
(あたしにわかるわけないでしょ!)
ジェシカも声に出さず言い返す。そのやりとりを怪訝な顔で眺めながらウォンが言う。
「そのために、まずは彼らの所在を突き止めることから始めないといけない」
「日本にいることは確かなんですか?」
ユナが問った。ウォンが頷いてみせる。
「全員ではないが、成田から入国した記録があった。おそらく他の連中もだろう」
「何人いるんですか?」
再びユナ。
「・・・おそらくだが、データを解析する限りでは10人」
「大所帯だね」
とヒョヨン。
「ああ。それだけにまとまって行動している可能性は少ない。目につくからな」
「ってことは全員バラバラにいるわけ?」
ユリの言葉にウォンが再び頷く。
「既にキファーフの配下が彼らを追っているはずだからな。彼らも必死なはずだ」
「テロリストに追われ、味方の軍隊にも助けを求められないわけだしな・・・」
ミンスが付け加えた。
「だから軍隊じゃなくって、あたしたちってことか・・・」
察してスヨンが言う。
「見つかるんですか?」
続けざまのスヨンの言葉にウォンが答える。
「見つけるさ。・・・・ただし時間はかかるだろう」
困惑した顔でジェシカが声をあげる。
「かかるだろうって…あたしたちそんなノンビリしてられないし!」
「だよね。カムバックの予定も迫ってるし」
ソニが口をとがらせながら同意する。他のメンバーも同じ意見だと言いたげに、その視線をウォンに集中させた。その視線に耐えかねたわけでもなかろうが、ウォンが何かを口にしようとしたその時、長い間閉じたままだったプレハブ小屋の扉が、小さく軋みながら開いた。部屋の中の全員が、過剰なまでに反応し、音のした方向を振り返る。そして、そこに姿を現した二人の人物にウォン以外の全員が目を見張った。
同じ時刻、深夜の横浜港。雨に濡れたレンガの壁が幻想的にライトアップされている。もう少し暖かくなれば、夜明けまで愛を語るカップルたちの姿もあるだろうが、まだ冬の寒さを残すこの時期に人の姿を認めるのは難しい。しかし、今夜はそうではなかった。光の届かない一角に、固まっている一群の影があった。光が当たらないせいではない、全員が上下とも黒いジャンパーとパンツに身を包み、頭には黒のニット帽をかぶっているせいだ。体格はさまざまだが、その身は等しく、いまにも破裂しそうななにかを内包しているように見えた。
「・・・以上がこれまでに掴んでいる情報だ」
先ほどまで聞きなれない言葉で延々と喋っていた男は、十名ほどの輪の中でもひときわ目立つ長身だ。ニット帽の下の髪の毛は分らないが、顔の特徴から中東系だと解る。
「成田空港から先の足取りは掴めてないんですか?」
グループの中の一人から声があがる。
「・・・残念ながら情報はない・・・ただ、幾らでも手に入れる方法はあるだろ?」
そう切り替えされて、質問した男は沈黙した。
「そのためにお前たちを選んだんだ。わかってるな?」
言われて全員が無言の肯定を示す。先ほどからグループの中に漂っていた見えないなにかが、ピンと張力を増したようだった。
長身の男はジャンパーのポケットから、紙の束を掴み出し、一枚ずつ男たちに手渡した。
「この数週間に、ソウルから成田入りした韓国人のリストだ。まずはこれを当たれ」
無数の名前が並ぶ紙を、男たちは雨に濡れないようにすぐさま自分のポケットに無造作に突っ込んだ。それを見届けて、再び長身の男がポケットから、今度は手のひら大のカードを取り出す。
「パク・ギョンサン。例のブツの開発者の一人だ」
若い男の顔写真がプリントされているそれは、ご丁寧にもラミネートされて、降りかかる雨粒を弾いている。
「逃亡した連中で、唯一面が割れているのがコイツだ。コイツを捕えられたら、他の連中の居所を知る手間が省ける可能性が高い」
男たちはその写真もポケットに突っ込む。
「欲しいのは、連中がそれぞれ持ち込んでるはずの"弾丸(タマ)"の開発資料だ。もしかすると実際に試作したものも持っている可能性がある。・・・どんな手段を使ってでも手に入れろ」
長身の男は強い口調でそう言い、最後に一言だけ付け加えた。
「猶予は1週間だ。1週間後の同じ時間、ここに戻ってこい」
言われた男たちは、その言葉を反芻するかのように微かに頷くと、静かに思い思いの方角へと歩き去っていく。最後の一人がレンガ倉庫の向こうに消えていくのを見届けると、長身の男は背後を振り返り、その暗闇にずっとたたずんでいた人影に声をかけた。
「・・・我々も行きましょうか、ボス」
言われた人影がゆっくりと立ち上がると、皮のジャンパーのあちこちに溜まっていた雨水がザッと流れ落ちた。
「・・・アービド。俺たちはどこへ?」
長身の男、アービドが訊かれて応えた。
「東京のコリアンタウンです。・・・新大久保」
訊いた男はその名を耳にしたのかどうかも解らないスピードで、アービドの先を歩きだしていた。彼がキファーフであることは、言うまでもなかった。
時が止まったかのような光景だった。戸口に立つふたつの人影が、自分たちの仲間、キム・テヨンであることは誰もがすぐに認識できていた。ソヒョンなどは思わずその名前を口にしかけた。しかし、それすらも詰まらせるほど意外な人物が、彼女の前に立っていたのだ。数秒の後、ようやくその呼び名を口にしたのはソニだった。
「・・・おじさま!?」
「会長!?」
ほぼ同時にそう言ったのはミンスである。その他のメンバーはただ茫然と立ち尽くしているだけだ。穏やかに微笑んでいるSMエンターテインメントの創始者の後ろから、ちょこんと顔を出したテヨンに、ティファニーが最初に顔をほころばせた。
「話は先生から全部聴いたよ」
テヨンが言いながら、メンバーのもとへと歩み寄った。わらわらと、それを取り囲んで軽いハグを交わしながらも、メンバーの視線はイ・スマンに注がれたままだ。あの事件以降、事務所で顔をあわせても、一切事件のことは口にしていなかった彼が、今、ここに姿を現したことに、ソシのメンバーだけでなく、ミンスも驚きを隠せないでいた。
「会長」
声を失ってしまったメンバーたちの代わりに、ウォンが声をかけた。
「お待ちしていました。ここからは、あなたから説明してもらいましょうか」
言われてスマンは軽く頷いて、先ほどまでの穏やかな笑顔を収めて2,3歩前に歩み出る。無言のまま、自分を見つめる9人とミンスの顔をひとつひとつ確かめるように見渡して、最初にこう言った。
「・・・お前たちには、本当にすまないと思っているよ」
それは、あの事件の真相を知って以来、彼が毎日のように心の中で彼女たちに投げかけていた言葉だった。あえてそれを声に出さないことが、彼なりの優しさでもあったのだ。
「会社をここまで大きくしたのは、お前たちに怖い思いをさたりするためじゃないのにな・・・」
言いながら、メンバーたちの頭をそっと撫でていくスマン。
「・・・皮肉なことに、私の会社が国の経済も左右するほど大きくなったせいで、お前たちにあんな思いをさせる結果になった」
最後にミンスの前に立つと、彼の目を見つめて言った。
「貴恵さんが助かったと聞いて、心の底からほっとしたよ・・・すまなかった」
そして深々と頭を下げるスマン。その姿に声もなく立ち尽くすミンス。頭をあげるとメンバーたちのほうを振り返り、大きく息を吐いてみせたスマン。
「今回起こったことは、すべてウォン少佐から聞いた」
言いながら、部屋の奥のウォンに視線をチラと向ける。
「残念ながら、彼の言う通り、またお前たちの手を借りねば、この問題は解決しそうにない」
目を閉じて、しばしの間言葉を捜すかのように沈黙する。
「・・・だが、今回はお前たちだけに辛い思いをさせたくない」
言いながら閉じていた目を開け、メンバーたちを見据える。その目は、重大な決意と彼女たちの慈しみの光をたたえていた。
「ウォン少佐には、随分と難色を示されたんだが・・・」
その言葉をウォンは無表情に受け止めている。
「これはSMエンターテインメント全体で受け止めるべき事態だ」
会長のその言葉に込められた真意を測りかねてか、まだメンバーたちの表情は固いままだ。
「理事たちとも話をして決めた」
「・・・・何を、決めたんですか?」
ようやくミンスがその口を開いた。その彼を見やって、少しだけ微笑むと、スマンは背を向けて言った。
「日本に逃げた開発者たちを、全従業員で探す」
「えっ?」
スマンの言葉にメンバーたちが声を揃えて反応した。
「先生、それって…」
ティファニーの声をさえぎってスマンが言う。
「ああ。お前たちだけに重荷は背負わせない。SMエンターテインメントのスタッフ全員で一緒に背負うんだ」
「・・・全員って」
スヨンが言うと、スマンは思い出したようにつぶやいた。
「SUJUの連中も快く賛成してくれたよ。・・・・SUPER SHOWのアジアツアー延期にな」
「え?」
再びメンバーが声を揃える。振り返ったスマンの顔には、穏やかな笑みが戻っていた。
「SMエンターテインメントは、この春、日本でSM TOWNを開催することにした」
その言葉が意味することを、メンバーたちは瞬時に察して、そして立ち尽くした。