巨大な倉庫の中は、無数のシートで区切られた迷路のようになっていた。よく見かけるブルーのシートもあれば、鈍い光沢を放つ灰色のシートや、向こう側でうごめく人影を見透かせる半透明のシートまで、さまざまなシートで区切られた迷路だ。その中をジョンヒョンの先導で進んでいくユリ。無言のまま前を行くジョンヒョンにユリが声をかける。
「・・・ここは何するところなの?」
前を行きながらジョンヒョンが答える。
「俺にも正直よくわからん」
一呼吸おいて続けるジョンヒョン。
「ただひとつだけウォン少佐が教えてくれたことがある・・・」
ユリはその先の言葉を待つつもりでいたが、ちょうど通り過ぎる半透明のシートの向こうで、研究員のような出で立ちの男が持ち運ぶ“それ”を目にし、思わず声を出した。
「あの衣装・・・?」
言いながら立ち止まったユリに一時遅れて、ジョンヒョンもその足を止めた。
「・・・よく覚えてるなあ」
そう言いながら、ゆっくりユリを振り返ってジョンヒョンが言う。
「おまえらが“あの日”着ていた衣装だよ」
深刻な表情で見つめ返すだけのユリに、彼は付け加えた。
「ここはアレを研究するための秘密の施設なんだそうだ」
数分前に窓の外に見えた見慣れない駅舎には「緑楊駅」と書かれてあった。見覚えのある繁華街の街灯りが見えなくなってから、20分ほど経っていた。車窓カーテンの隙間から見える風景は、彼女たちがこれまで見た事のない景色だ。誰かが「議政府?」と小さな声でつぶやいた。先ほどの駅名から判断したのか。ソウル特別市の北の街だと解っても、それは地図の上での知識にしか過ぎない。
「知ってんの?」
小声で隣のユナにそう聴くのはサニーだ。どうやら「議政府」と呟いたのはユナだったようだ。
「ん? ああ、この前EIDERのCF撮りで来たんですよ」
「ふーん」
EIDERは今、ユナが契約しているアウトドアブランドの名前だ。道峰山(トボンサン)をはじめとする韓国でも人気の登山コースに囲まれた議政府市は、ソウルから近いこともあって、よくアウトドアCFのロケ地にも使われる。
「そういえばさ、ミンホオッパとの食事会の話どうなったのよ!」
不意に後ろのシートから身を乗り出してジェシカがユナに詰め寄る。二人の小声の会話が耳に入ったようである。
「え? あ、ああ。あれですか・・・」
いつぞや、酒の席で調子にのって、CFで共演しているイ・ミンホとの食事会を「セッティングしますよ~」と言ったことを忘れていた。
「アレですかじゃないわよ! そのためにアタシ、ドレスまで用意したんだから!」
「そ、そんなこと言われても」
ふくれっつらで迫るジェシカにたじろぐユナ。
「ちゃんと有言実行で頼むわよ!」
言うだけ言ってユナの持たれているシートをバンバンと叩いて自分のシートに戻るジェシカに、他のメンバーは、やれやれという表情を隠さない。ユナだけが自分の軽口を改めて後悔しながら、反対隣に座るティファニーに目で訴えかけるが、ティファニーは気付かないフリで窓の外を眺めていた。
闇の中に時折、煌々と明かりのともる武骨な門構えの施設が現れては消えていく。
「軍の施設なんですかね?」
最後列の席でソヒョンが言ったように、この街は在韓米軍や韓国軍の駐屯地も多い軍事都市でもあった。クリスマスの特番で駐屯地を慰問に訪れたことのある彼女たちだが、あの時に訪れたのは議政府市ではなく、通称“白馬部隊”と呼ばれる京畿道坡州の第9師団である。
「そんな感じだよね~」
気のない返事を隣のヒョヨンに返されて、一瞬、横目でジロリと睨んだソヒョンだったが、それにヒョヨンが気付くことはなかった。それから無言のままの8人とミンスを載せて、十数分ほど走り続けたワゴンは、不意に大通りを右にそれて工業団地のような区画に入っていった。<韓国アルミニウム>という看板が一瞬視界に入ったが、それ以外に目につくものといえば、わずかな街灯と闇の中に黒々とシルエットを晒す巨大な建物のみだ。
「・・・なにここ。怖い!」
ジェシカが言いながら横のスヨンの二の腕をバンバン叩く。
「痛いって!大袈裟なんだよ、もう!」
言いながら器用にジェシカの左手首をキャッチして、向こうへ押しやるスヨン。それを最後列のシートで眺めていたヒョヨンが
「ひゃはは! 勝者ジェシカッ!みたいな感じやーん!」
と一人でウケていると、
「・・・着いたみたいだ」
助手席からミンスが落ち着いた声で告げた。バツが悪そうな顔で黙り込むヒョヨン。やがてワゴンは大きな倉庫の敷地に侵入し、先に停まっていたワゴンの横にピタリとつけて停車した。同時に外からサイドドアが引きあけられる。車の外にいる男たちが軍服姿なのに気付いて、7人の表情がこわばった。
「ご案内します」
ドアのすぐそばに立っていた軍人が、うやうやしくそう告げて左手で降車をうながす。少しの間躊躇したものの、一番ドアに近いティファニーが意を決して車を降りると、ユナ、サニー、スヨン、ジェシカ、ソヒョン、ヒョヨンの順に全員が車外に出ていく。最後にミンスが助手席から降りてくるのを確認すると、再び軍人は言った。
「こちらへ」
躊躇なく歩き出す軍人の後を、まずミンスが追い、7人も後に続いた。春のまだ冷え切った夜気が肌を撫でていく。自分たちの足音以外の音がまったくしない闇の中を、いつの間にか開け放たれていた倉庫の小さな扉に向かって進む一行。7人がいつしか、無意識に手を繋ぎ合っていることに気付いたのは、運転席に座ったまま、一行を見送るドライバー役の男だけだったかもしれない。
ジョンヒョンが案内した倉庫の隅に建てられたプレハブの中で、彼に勧められるままパイプ椅子に腰かけたユリは、殺風景な室内をぐるりと眺めた。スチールのテーブルと、パイプ椅子が数脚。壁にはなにも貼られてはおらず、唯一、安物のアナログ時計が架けられているのみだ。その時刻は、既に深夜を示している。本来、窓のある部分には合板が嵌め込まれ、外を伺うことはできない。
「・・・いったい何が起こってるんですか?」
ユリはようやく、ジョンヒョンに向けてその問いを発することができた。
「それは少佐がもうすぐ説明してくれるさ。俺もこのお屋敷に30分前に案内されたばっかりだしな」
ジョンヒョンがスチールデスクの縁に腰掛けながら答える。
「テウオッパのことと関係あるんですか?」
「ああ、それは間違いなさそうだ」
「オッパはどこに?」
「それが解ってりゃ苦労しないさ。・・・まだ捜索中だ」
再び二人の間に沈黙が訪れる。ユリは記憶を手繰り寄せた。繋がらなかったテウへの電話。やがってかかってきた見知らぬ番号からの着信。テウのメール。そして路地裏で拾った携帯電話。ナルシャとの邂逅。そしてウォンの登場・・・。「我々が追いかけてたのは、それだ」とユリが手にしていた携帯を指して彼は言った。拉致されるように、ここへ連れてこられ、ジョンヒョンと再会した。そして・・・さっきシート越しに見えたあの服。ハッキリと見えたわけではないけれど、日本のコンサートで身に着けていたスーツだと、ユリは確信していた。
忘れようとしていたあの事件がじわり、と記憶の底から浮き上がってくる。あれは、スーツを狙うテロリストたちによるものだと聞いた。その場にいた一味は全員捕まったとも聞いたけれど、まだあのスーツを狙う何者かがいて、軍が動いているのだろうか? いや、それならばあのスーツはもっと厳重に管理されているはずだ。それ以前に、テウが失踪したこととの関連が全く見えない。謎の究明に没頭していたせいで、ユリは背後のドアが開く音も聴こえていなかった。
「・・・おい、お仲間登場だぜ」
ジョンヒョンに言われて我に返ったユリが振り向くと、視線の先にミンスとティファニーの顔があった。
「ユリヤ!」
ティファニーもミンスの背後だったせいか、少し遅れてユリの存在に気付き声をあげた。ミンスを追い越すように室内に飛び込んできて、ユリに抱き着くティファニー。他のメンバーもドカドカと追従してあっという間にユリを取り囲んでいく。「良かったよ~」「心配したよ~」の大合唱が始まり、ソヒョンは目に涙まで浮かべている始末だ。それをよそにミンスはジョンヒョンのそばへ歩み寄った。
「・・・」
相変わらず机に腰掛けたまま、軽く右手で挨拶するだけで何も言わないジョンヒョンに、ミンスが言う。
「いったい何が始まるんだ?」
「これから説明する」
ミンスの問いに答えたのは、いつの間にかと戸口に立っていた軍服姿の男、ウォンだった。ミンスだけでなく、少女時代のメンバーたちも無言で彼を見つめた。
全羅北道全州市。真夜中過ぎに自宅の呼び鈴が鳴るのを聴くのは、テヨンの人生において2度目かもしれない。一度目は近所で火事のあった日の晩。あれはまだテヨンが小学校にあがる前の話だ。その時のことを思いだしてテヨンはベッドの中で身を固くした。こんな時間の訪問者は、ロクでもない訪問者に決まっている。何度か鳴りつづけたベルが、ドアの開く音とともに止んだ。父が起き出して対応したのだろう。ベッドを通して床下の会話が微かに聴こえるが、もちろんその内容までは聴き取れない。ほどなく階段を昇る足音がした。特徴のある父の足音だ。やがてドアのノックとともに父の声がする。
「・・・テテ。起きてるか?」
父の声音に不安の色を感じ、一瞬このまま寝たふりをしようと思ってしまったものの、さすがにそれも出来ず、テヨンは返事を返す。
「軍の方が迎えにこられたよ・・・」
その言葉に、思わずベッドから起き上がるテヨン。
「軍?!」
一瞬にして“あの日”の記憶が甦る。中でも空港で銃撃された時の記憶は、鮮烈だ。撃たれるということが、あれほど恐ろしく絶望的だとは。スーツの性能を信じていたというよりは、あの状況で自分を見失っていたのだろうと今では思う。かってないほどの力で他人の顔を殴ったことですら、他人事のように感じていた。
「・・・テテ? 大丈夫か?」
再びドアの向こうで心配そうに声をかけてきた父の声で我にかえると
「う、うん。今、支度するから」
そう答えてベッドから抜け出すテヨンだった。
江南のとあるマンションのキッチンで、ナルシャは冷たい水に自分の手を晒しながら、顔をあげた。リビング・ダイニングのソファに深く身をうずめて、表情を無くしたテウの妻が見える。彼女の代わりにテーブルの上の食べ物を片付け終えたところだ。40分ほど前にここに舞い戻り、事情を説明すると、当たり前だけれど、彼女は大声をあげて取り乱した。同行した軍人に諌められて落ち着きを取り戻したものの、すっかり生気を失っている。遅れてくるという予定だった友人たちには、中止になったことだけをナルシャが伝えた。もちろん本当の理由は明かしていない。テウが体調を崩したとだけ言ってある。そうしろと指示した軍人は、ダイニングテーブルの椅子に座って微動だにせずいる。妙に重苦しく張りつめた空気が部屋に漂っていた。
「ねえ、軍人さん」
たまらずナルシャが声をかける。その呼びかけにちらと視線を返す男。
「名前くらい教えてくれてもいいんじゃない? なんか息苦しくってしょうがないよ」
ナルシャに言われて、少しの間考えてから男がいった。
「デジュンと言います」
「ふーん。なんか御大層な名前だね」
ナルシャに言われて少し不機嫌な表情を浮かべるデジュン。
「よく言われます。あまりいい思い出のない名前です」
そう言うデジュンの横の席に腰を下ろしながらナルシャが小さく笑う。
「そう? いい名前じゃん。“ヒョジン”より全然魅力的」
「ヒョジン?」
思わずデジュンが訊き返す。
「パク・ヒョジン。・・・あたしのホントの名前」
「あ、ああ…」
リアクションに困って固まるデジュンを左の肘で小突きながら、ナルシャが言う。
「なんか失礼なリアクションだね~、年上の女に向かって! そういうときはね、『素敵な名前じゃないですか』ぐらい気ぃきかせて言うもんだよ」
「は、はぁ…」
尚も困惑しているデジュンにニッと笑ってみせると、相変わらずソファで無表情なまま座っている新妻に目をやる。デジュンもつられてそちらを見た。
「・・・いったい何が起こってんだろうね?」
ナルシャの言葉はデジュンに向けられたものだったが、デジュンにもその問いに答えられるだけの情報は与えられていなかった。ふー、と軽く息を吐き出すとおもむろに席を立つナルシャ。
「珈琲でも貰おうかな。・・・アンタもいる?」
言われてデジュンは一瞬戸惑いながら
「はい。いただきます」
と小さく頭を下げた。
鈍い音が薄暗い空間に響いた。音の反響具合から察するに、随分と狭い部屋のようだ。唯一の灯りである裸電球が、微かに揺らいでその下にいる人物を照らし出している。短くサイドを刈り込んだ頭部は、水なのか汗なのか、光る液体の滴が大量に滴っている。男の影が足元に落ちて、汚れたコンクリートの上で左右にユラユラと揺れ動く。再び鈍い音。それは男が殴打されている音であった。激しく殴られてグラついているにも関わらず、男は声ひとつ上げない。その変わり、男を殴ったほうの人物が、その手を一方の手でさすりながら口を開けた。
「・・・コイツ、なんて固ェ頭してやがんだよ」
言いながら、うなだれたままの男の顎を掴むと、その顔を引き起こす。グッとその顔に自分の顔を近づけて殴ったほうの男が言う。
「きさま、いい加減に白状しろ!」
顎を男に掴まれたままの男は、無残に腫れ上がった瞼を震わせながら男を見返し、切れた唇で微かに何事かを呟いた。
「なんだって?」
男がそう言ってさらに顔を近づけた時、プッと男の口から血の混じった唾が男の頬に浴びせられた。
「・・・知らねェって言ってんだろ」
今度はハッキリと聴こえるようにそう言って、唾をこびりつかせた男にフッと笑ってみせた。
「こ、こ、この野郎!」
おちょくられたと悟った男は、顎を掴んだまま、残った手で笑う男の頬を思いきりはたいた。それでも声ひとつ上げない男。その一部始終を背後で眺めていたらしいスーツ姿の男が、暗がりから歩み出てきた。
「・・・さすがだな。軍隊を経験すれば、芸能人といえどタフになるってことか」
スーツの男は感心したようにそう言うと、部下らしいさきほどの男にチラと目をやって言った。左の頬がぷくりと膨らんで、時折ぐりぐりと動いている。どうやら何か飴のようなものを頬張っているようだ。飴玉を含んでいるせいか、ややくぐもった声で男が言う。
「まあ、いい。まだ時間は十分にある。それよりどうだ? もう一人のほうは? あっちのほうが何倍も落ちやすそうだが」
「あっちも粘ってますけどね、メモリカードの中身までは知らないの一点張りで・・・」
「・・・まったく。お前らがもう少し注意深くやってれば」
スーツの男に冷たい目で睨まれて、部下は言葉を失った。
「必ず吐かせます」
「言葉はいい。結果で示せ」
「・・・はい」
飴玉の男は部下の返事をまともに聞こうともしないで、部屋を立ち去ろうとする。ドアの前で一瞬立ち止まると、椅子に縛られたままうなだれる男、キム・テウに背を向けたまま、相変わらずのくぐもった声で言った。
「まあ、あまり自分の体を痛めつけんことだ。お前じゃなくても、痛めつける体は他にもあるからな。例えばそうだな、最近できた身内とかな・・・」
その言葉に、これまで以上の反応を見せて、テウが吠えた。
「・・・そんなことしてみろ! 絶対にお前らを殺してやるからな!」
言い終わるか終らないかのうちに、その頬を横殴りにされ、うめくテウ。
「なら、とっとと吐くんだな。携帯電話は誰のところにあるんだ? あん?」
部下のセリフが自分の趣味に合わないのか、スーツの男は苦々しい顔を見せ、ぐりぐりと飴玉を反対の頬に移動させながら部屋を出ていった。再び湿った薄暗い空間に、二人の男だけが残された。責める者と責められる者と。
