話は、1回目の海外赴任から本帰国した頃に戻ります。
私は、自分が育った練馬ではなく、横浜に住むことにしました。
本当は生まれ育った場所に戻りたい気持ちもありましたが、
アメリカでカウンセリングを受けた際、
「お子さんたちはお父さんに会わせない方がいい。できるだけ、お父さんと繋がる可能性のある人に連絡先を伝えないほうがいい」と
アドバイスされていたのです。
父が私にしてきた暴力、そしてストーカーのような執着を思えば、子どもたちを会わせることはとてもできませんでした。
物理的にも、母の助けを借りようにも、電車で1時間半という距離がありましたが、こうして日本での新しい生活が始まりました。
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生活の立ち上げが落ち着いてから、私は自分の体のために病院通いを始めました。
アメリカで一度歯列矯正をしましたが、再び矯正を始めることになりました。もちろん見た目のためではなく、「痛みを取りたい」という切実な理由からです。
「過去に難しい症例も治してきた」と謳う自由診療の歯科で治療を始めたものの、結果的にその歯科では私の痛みはさらに増してしまいました。
痛い、痛い…
それでも私は、幼い2人の子どもを前後に乗せてママ用自転車をこぎ、お弁当を作り、ご飯を作り、洗濯をし、掃除をし、新しい環境の中で友人づくりにも努めました。
本当に、頑張っていました。
ある日、母にお願いをしました。
「週末だけでもいいから、ご飯作りを手伝いに来てくれたらうれしい」と。
けれど、母が会いに来てくれたのは年に2回ほど日帰りで。私が会いに行くのを含めても、年に3〜4回しか会えなかったと思います。
電車で1時間半の距離なのに。
日本に住んでいた間、正直、寂しかったです。
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そんなある時、新潟に行く道中で母が話していたことがありました。
私も覚えている人ですが、
昔、宗教団体の地域グループで一緒だった、片足を失い松葉杖で生活されている方がいて、その方の携帯電話の契約や操作の手伝いや、入院時のお世話などをしているのだと。
また、母は「救缶鳥(きゅうかんちょう)プロジェクト」にも参加していました。
このプロジェクトは、缶詰パンを備蓄し、消費した分が飢餓地域へ寄付されるという社会貢献型の取り組みです。
そうした人助けの姿勢自体は、素晴らしいことだと思います。
地域の困っている方を支えたり、世界の飢餓救済に貢献したり——それは称賛されるべき行動です。
でも、その一方で。
実の娘が、育った家庭環境の影響で不定愁訴に悩まされ、日常生活を維持するだけで必死になっている時に。
その娘が、「助けてほしい」と手を伸ばしても、なぜ母の心には届かないのだろう。
それが、とても悲しかった。
他に友人と釣りに行ったり、北海道に旅行に行くのにハマったと
話を聞いたり。
楽しむ事も別に否定したい訳じゃないのです。
私は、母に理解してもらいたくて、当時抱えていた症状について詳しく書かれた本をわざわざ購入して、読んでほしいと渡したこともあります。
でも、何も変わりませんでした。
母の行動を見ていると、どうしても「順番が違うのではないか」と感じてしまいます。
まずは、すぐそばにいる家族——ましてや実の娘に手を差し伸べてくれてもいいのではないかと。
こんなふうに感じてしまう私は、おかしいのでしょうか?
ただの甘えなのでしょうか?
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幸いなことに、横浜で通うことになった学校にはとても恵まれました。
暖かい先生方、そしてお友達のお母さんたちが、私の子どもたちをあたたかく見守ってくれました。
「子どもは大人たちに見守られて育つ」――その姿を目の当たりにしたことは、私自身の心をも癒してくれるものでした。
横浜での生活で、私の子どもをあたたかい視線で見守ってくださった方々には、心から感謝しています。
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