幸せをありがとう
『後輩の結婚式』
ども!TK89です。
ブログの更新が滞っておりました。だって昨日は後輩の結婚式。朝から祝いの酒をずっと飲んでたから。さすがに帰ってきてからパソコンを開くことができなかった。
しっかし、もう1日経っちゃったけど、めでたかったなぁ。「彼女できたんですよぉ~」って言ってた時が懐かしい。社会人になってからはなかなか一緒に遊べなかったけど、俺が使ってたスノボの板を履いてる後輩の写真が出てきてなんか嬉しかった。
みなさんにブログに載せるって許可取ってないけど、めでたいし、いいかなぁと載せちゃいました。ちなみに後ろの5人。結婚した彼らより先輩ですが、皆、未婚です...orz
披露宴の途中、嵐のような天気になったけど、天気が回復して良かった。俺の顔は時が進むにつれ赤黒くなってった...披露宴が終わり、二次会までしばし睡眠。やっぱり体力無くなったなぁ。
二次会では、新郎よりご指名頂き、乾杯の音頭をとらせていただきました。これまた良い思い出です。
今回は日曜日ということもあり、二次会で終了。でも十二分に祝い酒、飲ませていただきました。
幸福というものは、決して1人では味わえないもの。今日という日は、残りの人生の最初の1日。お二人に幸多きあらんことを!!
チャオ!
今日という日【5月23日】
■北但馬地震
1925年5月23日。
午前11時11分、兵庫県但馬地方北部で発生した地震。地震の規模はマグニチュード6.8。
円山川流域、特に豊岡、城崎の町に甚大な被害をもたらした。揺れを感じる直前には、円山川の河口付近において海側から大砲のような音が断続的に聞こえ、地震発生時には、豊岡の町で地面が16秒間に4回も強く波打ったという。当時の建築物は木造が大半であったために、地震の初動で建物の多くは一気に倒壊した。折しも昼時で、食事準備のために火を焚いていた民家や旅館では、家屋倒壊に伴い、瞬く間に火の手が上がった。
地震後に発生した火災により、豊岡では町の半分が焼失し、城崎では実に272人(人口比で8.0%)という多数の死者が生じた。犠牲者の大半は、食事準備中に倒壊した建物に挟まれたまま火災によって焼死した女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」とまで言われている。
一方、震源地付近と考えられる港村田結(現:豊岡市田結)では83戸中82戸が倒壊、10カ所前後から煙が上がったが、住民が救助より消火を優先したことにより延焼は食い止められ、住民約440人7人の圧死者を出すにとどまった。なお、鎮火後に救助が行われ、倒壊家屋から58人が救出されている。震災後に断層調査に来た地震学者の今村明恒は、「震災国日本における模範的な行動」と賞賛した。
但馬地方北部、円山川流域のこの地域は、三方を山地に囲まれ、残る北部は海に隔てられているため、元々陸の孤島に近かった。地震により、交通網が寸断されたために、周辺の町の消防団や陸軍・海軍の救護隊が到着するまでに丸1日かかり、救助の初期活動が著しく滞った。そのような中で、豊岡中学校の生徒約500人が倒壊家屋からの生存者救助や消火活動などに従事し、臨時の救助隊として大きな働きをした。 円山川の改修に従事していた朝鮮人労働者の多くも救援に奔走しており、後に県知事の表彰を受けている。また、鳥取高等農業学校(現在の鳥取大学農学部)の生徒がいち早く城崎に駆けつけ、ボランティア活動を展開した。
今日という日【5月22日】
■1960チリ地震
1960年5月22日。
現地時間15時11分14秒。チリの都市バルディビア近海で地震が発生。表面波マグニチュード8.5、モーメントマグニチュード9.5の有史以来観測された中で最大規模の巨大地震。
前震がマグニチュード7.5で始まり、マグニチュード7クラスの地震が5、6回続いた後に発生した。また、余震がマグニチュード7クラスだったため首都のサンティアゴ始め、全土が壊滅状態になった。地震による直接的な犠牲者は1,743人。負傷者は667人。
この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2.7m沈み込むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が半径約1,000kmという広範囲にわたって観測され、史上初の地球自由震動の観測に成功し、発生した地震波は地球を3周した事がアメリカ合衆国での観測で確認された。
本震発生から15分後、約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約15時間後にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島のヒロ湾では10.5mの津波を観測し、61人が死亡した。
日本では地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大6mの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142人が死亡。気象庁では、津波の災害について「チリ地震津波」と命名している。
津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53人、宮城県志津川町(現:南三陸町)では41人、北海道浜中町霧多布では11人が死亡。浜中町では1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度にわたって市街地は壊滅的な被害を受けた。街の中心でもある霧多布村はこの津波により土砂が流出し、北海道本島より切り離され島と化した。
地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され、以後気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。


