今日という日【8月28日】
■ワシントン大行進
1963年8月28日。
アメリカ合衆国のワシントンD.C.で人種差別撤廃を求めるデモが行われた。
公民権運動家で、牧師の「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」らによって、人種差別撤廃を求める運動の一環として行われた行進で、20万人以上が参加した。この行進の最中に、「キング牧師」の有名な演説「I Have a Dream」が行われた。
アメリカでは、「エイブラハム・リンカーン大統領」による「奴隷解放宣言」から100年を経た1960年代になっても、「ジム・クロウ法」と呼ばれる「人種分離法(=人種差別法)」の下、アパルトヘイト政策下の南アフリカ同様、交通機関や学校、水飲み場やトイレ等の公共機関のみならず、ホテルやレストラン、バーなどにおいても、アメリカにおける多民族である白人と黒人と全ての有色人種が分離されていた。当然のごとく有色人種専用のものは劣悪で不潔なものであった。
さらに、「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識学率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。また、これらの州においては、「クー・クラックス・クラン(KKK)」などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが多発した。
しかし、「キング牧師」などの活動家の指導の下、黒人たちの公民権獲得を求める運動が盛り上がりを見せ、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も公民権法の制定に大きく動き始めた。
公民権運動が盛り上がりを見せる中で、連邦政府に対して公民権制定を訴えかけることと同時に、内外に対して公民権運動の盛り上がりをアピールするために、公民権運動団体を中心に「ワシントン大行進」が企画された。
公民権運動は、この日行われた「ワシントン大行進」によって最高潮に達した。人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の人々が「ワシントン記念塔広場」に集まった。この大群衆を前に「キング牧師」が演説を行った。
『私は夢見てる。』
『ある日、ジョージアのレッドヒルで、奴隷だった息子達と奴隷の主人だった息子達が、兄弟愛というテーブルにともに就き得ることを。』
『私は夢見てる。』
『ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピでさえ、自由と正義というオアシスに変わることを。』
『私は夢見てる』
『私の4人の子どもたちがある日、肌の色ではなく人柄によって判断される国に住むことを。』
『私は夢見てる』
「I Have a Dream」のフレーズを何度も繰り返して人種平等社会の実現を訴えた。
イカの話
『イカ』
ども!TK89です。
妙に忙しかった1週間を終え、やっとこさ休日。金曜日の夜は飲みたい気分になるんだけど、友人もつかまらず独り晩酌。
で、とあるラジオ番組で草彅剛が「感謝したい人」のコーナーで「イカ」と答えたという記事を発見。「イカ」は刺身で食べるのも好きだし、人類が滅亡すると「イカ」が陸上に君臨するという「イカ最強説」を信じてる自分には気になる話。
イカ、草彅君の熱弁。
イカは美味しいのはもちろんだけど、刺身からするめなどの保存食にもなる。
マグロとかも好きだけど、マグロはイカを食べる。海の連鎖をイカが保ってる。
大王イカ、イカは他のものに食べられるから『でっかくなってやろう』と思って大王イカになった。
体長20mのものが目撃されたこともある巨大イカ、大王イカ。マッコウクジラの胃袋からも発見されることもあり、「そんなに大きくなったけど、もっとでかい鯨がいた。悲しいでしょ!」と熱い言葉。
イカスミの美味しさを主張し、「タコスミは美味しくない。アミノ酸が入ってないんですよ」と「イカが逃げる時にスミを吐くと、魚が『あれっ、美味しい』って一瞬止まる。」「逃げる際にもいいことするんですよイカって!どこまでイイ奴なんだ!」
へぇ、確かになぁとするめを頬張りながら独り晩酌してた。そしていつの間にやら寝てるという最高に気持ちのイイ睡眠をとった。イカに感謝。
休みの朝からこんな記事をアップしてる自分、イカがでしょう?
さて、シャワーでも浴びるか。
チャオ!
今日という日【8月27日】
■世界最短の戦争勃発
1896年8月27日。
歴史上一番短い戦争としてギネスに登録されているのが「イギリス・ザンジバル戦争」。「イギリス・ザンジバル戦争」は、この日にイギリスとザンジバル・スルタン国間で起こった戦争の呼称で、戦争が僅か40分間しか継続しなかった。
19世紀末、ザンジバル・スルタン国はドイツ帝国とイギリス双方から圧迫され、対岸の東アフリカにあった勢力圏をドイツ領東アフリカとイギリス領東アフリカに分割しており、1890年の「ヘルゴランド=ザンジバル条約」でイギリスの保護国となっていた。
戦争の発端は勃発2日前の1896年8月25日。それまでイギリスの植民地行政に快く協力していた、第5代国王の「ハマド・ビン・トゥワイニ」が、甥にあたる「ハリド・ビン・バルガシュ」によるクーデターで死亡。バルガシュはクーデター後に自身が新たなる国王であると宣言し、事実上トゥワイニの次の国王として実験を握る。しかしその後、別の国王候補者であった、「ハムード・ビン・ムハンマド」より退任要求の最後通牒が提示される。ムハンマドは外交や政策上便宜を図るのに緩慢な人物であるとされ、イギリス側から好ましく思われていた。
バルガシュはこの最後通牒を拒否し、すぐに約2,800人の軍隊を招集し、国の旧式武装艦「グラスゴー」を湾に停泊させた。バルガシュの軍勢が宮殿の要塞化を始める一方で、イギリス海軍は宮殿に面した港湾に5種の軍艦を招集。「英国擁護派」の正規兵を援助するため、イギリスはイギリス海軍部隊約900人も上陸させた。
最後通牒の猶予時刻を過ぎた1896年8月27日午前9時丁度に砲撃命令が下り、午前9時2分から宮殿を標的としたイギリスの集中砲火が始まった。「グラスゴー」は途端に沈没、宮殿は崩壊、犠牲者の数は拡大し、バルガシュは避難所と考えていたドイツの領事館へ早々と撤退した。砲撃は開始時刻の9時から40分後に終了した。