今日は何の日?【トリビアン】で雑学王
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今日という日【6月4日】

■ゲルニカ完成

1937年6月4日。

ゲルニカ」は、スペインの画家「パブロ・ピカソ」がスペイン内戦中に空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られたタピストリー作品。

スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われる。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み、6月4日に完成させる。

スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。
ピカソは1973年にこの世を去る。フランコ将軍も1975年に没し、政体の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再び始まった。1981年になってようやくスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。

ピカソは大戦後これと同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、そのひとつはニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前に展示されている。

ゲルニカ」は、その誕生からその遍路の間も反戦のシンボルであり続けてきた。ただ、ピカソが後に共産党員になったことや人民戦線との繋がりから、ピカソの義憤の象徴と解釈するのには異論もある。

今日という日【6月3日】

■菊池直子逮捕

2012年6月3日。

菊池 直子」はオウム真理教の元信徒。一連のオウム真理教事件の容疑者として指名手配されていたが、2012年6月3日に相模原市内の潜伏先で身柄を確保され、警視庁に逮捕された。

1986年11月以降は足取りが途絶え、「海外逃亡説」もあったが、2012年6月3日、「菊地に似ている女性を見かけた」との目撃情報が警視庁に寄せられ、それを受けて警視庁捜査一課が担当刑事を相模原市緑区の潜伏先に派遣し、張り込みを行った結果、潜伏先の住宅に女性が帰宅したのを確認して任意同行を求めた。その時点では捜査員が菊地であると確信出来なかったことから、警視庁本庁への身柄送致が行われた後、捜査官が照合作業を行った結果、女性が菊地本人であると確認し、警視庁が殺人及び殺人未遂容疑で菊地に対する逮捕状を執行し、通常逮捕を行った。
また、2007年3月から2012年6月まで菊地を匿っていた同居男性も犯人蔵匿罪で逮捕された。菊地及び同居男性の証言から最後のオウム逃亡犯である「高橋 克也」に関する証言が得られ、高橋は2012年6月15日に逮捕された。菊地に関する目撃証言を警察に提供したのは同居男性の親族であり、2012年3月に健康保険証のない菊地が将来病気になった時の対応について同居男性が親族に相談したことが、同年6月の警察通報の端緒となった。同居男性は一審裁判中に保釈され、2012年11月22日に懲役1年6ヶ月執行猶予5年の有罪判決が出た。

地下鉄サリン事件」では処分保留となり、6月24日に3件の「VXガス事件」で殺人罪及び殺人未遂罪で再逮捕。3件の「VXガス事件」も処分保留となり、7月15日に「東京都庁小包爆弾事件」で爆発物の原料の運搬役をしたとして殺人未遂罪と爆発物取締罰則違反容疑で再逮捕した。
取調べにおいて菊地は「サリン事件」について「当時は何を作っていたか知らなかった」、「VXガス事件」について「事件にかかわったかどうかわからない」と容疑を一部否認し、「東京都庁小包爆弾事件」では黙秘をした。17年という時間経過から確定的な証拠が集まらなかったため、「サリン事件」と「VXガス事件」については不起訴処分となった。8月6日に「東京都庁小包爆弾事件」に絡んで殺人未遂罪と爆発物取締罰則違反の幇助罪で起訴された。

今日という日【6月2日】

■九州大学電算センターファントム墜落事故

1968年6月2日。

「九州大学電算センターファントム墜落事故」は、福岡県福岡市東区箱崎の九州大学箱崎地区内に、米空軍のファントム偵察機が墜落した航空事故。

1968年6月2日22時48分頃、米空軍板付基地第313航空師団第15戦術偵察飛行隊所属の「RF-4Cファントム偵察機」が、当時、九州大学箱崎地区内に建設中であった九州大学大型計算機センターの屋上に墜落。大型計算機センターは炎上し、5、6階が全壊。ファントム機の残骸は建物にぶら下がった状態となった。当日は日曜日で建設工事は行われておらず、また、搭乗員のパイロット2人は墜落直前にパラシュートで脱出していたため、人的な被害はなかった。
墜落したファントム機が所属する部隊は、沖縄の嘉手納基地に駐在していたが、1968年1月23日に起こった「プエブロ号事件」に対応するために韓国に展開し、その後、2月16日に板付基地に移動していた。

事故の翌日の6月3日には、九州大学総長「水野 高明」が米軍及び日本政府に対し抗議声明を発表。学生や教職員約4,000人が抗議デモを行った。デモはこの後も連日続き、6月4日には総長も参加した約6,000人の市内デモが、6月5日にも総長が参加し約4,000人のデモが行われた。
残されたファントム機の残骸については、学内では大学自治の観点から米軍による撤去を拒むことでは一致していたものの、自主引き降ろしをするか、反戦のシンボルとして残すかで意見が割れた。7月9日に評議会が自主引き降ろしを決定すると、引き降ろし反対派の学生らは作業を実力で阻止し、8がつ1日には大型計算機センターの残骸をバリケードで囲って占拠した。
8月23日には、九州大学が残骸を保管するために機体保管庫の建設を開始しようとしたが、反対する学生と衝突。21人の負傷者を出し、建設作業は中止された。

ファントム機は、同年1969年10月14日に、約4,000人の機動隊によって反対する学生を排除しつつ、九州大学から搬出され、板付基地に移された。

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