今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -2ページ目

今日という日【6月1日】

■立山黒部アルペンルート全通

1971年6月1日。

立山黒部アルペンルート」は、富山県中新川郡立山町の立山駅(富山地方鉄道)と、長野県大町市の扇沢駅とを結ぶ交通路であり、国際的にも大規模な山岳観光ルート。1971年(昭和46年)6月1日全通。

立山駅から扇沢駅までは、ほぼ東西に25km足らずの直線距離だが、最大高低差は1,975mあり、ルート内の交通機関として、立山連峰の景観を望む立山ロープウェイ、全線地下式のケーブルカー、黒部ダム建設に用いられたトンネルを通るトロリーバス、国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動する。そのほぼ全区間が中部山岳国立公園内にあり、飛騨山脈・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通る。途中駅にはホテル立山などの宿泊施設もあり、それぞれが登山、散策、トレッキング、その他の観光コースの基点にもなっている。
最高地点は、立山登山の基点ともなる室堂で標高2,450m。富山県側の立山から黒部湖までの区間は山岳観光や立山の登山客の便を図る為に作られた。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬の為に建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放された。
立山黒部アルペンルート」は、登山道を除けば富山県と長野県とを直接結ぶ唯一の交通路。しかし、自然保護の観点などから運賃が高目に設定されていることと、多くの乗り物を乗り継がなければならないことから、富山・長野間の移動を主目的として用いられることはほとんどない。乗客の大半は県外からの観光客。また富山空港に韓国や中国、台湾との国際線が乗り入れるようになってから、これらの国々からの観光客が目立つようになった。

昭和40年代の開通当初には一般車両を通行させる計画もあり、小型乗用車12,800円、普通乗用車18,900円の料金設定がなされたが、実際に一般車両を通行させることなく現在に至っている。現在、乗用車やバスで立山黒部アルペンルートを訪問する観光客に対し、車両を立山駅と扇沢駅の間で回送する運送業者のサービスがある。

今日という日【5月31日】

■台北大空襲

1945年5月31日。

台北大空襲」は第二次世界大戦中に連合国軍の爆撃機により日本統治時代の台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃。

この空襲において最も大きな物的被害を受けたのは台湾総督府。総督府は空襲を避けるために迷彩偽装が施されていたが、建物右翼が被弾し、中央塔脇のエレベーターと階段、その間にあった事務室が倒壊した。建物の爆弾による実質被害はこれだけだったが、発生した火災が消火までに数日を要する大規模なものだったため、結果的には対家屋面積比の83%が被害を受け、以降の使用は不可能となった。更に当時建物内にいた人々が地下室へ避難していたところ、階段が瓦礫で埋まってしまったため全員が生き埋めになるという惨事も発生。このほか総務長官官邸、鉄道ホテル、総督府図書館、台湾電力株式会社、台湾軍司令部、台北帝国大学付属病院、台北駅、高等法院、度量衡所などの官庁が程度の差こそあれ被害を受けている。

台北大空襲」は、アメリカ軍は台北城内の軍事・経済活動の拠点を主要目標としたとしているが、少なからずの一般市民の住宅への被害も認められる。当時市民の防空施設であった台北市双連地区の静修女学校(現:私立天主教静修女子中学校)に付属するキリスト教教会のほか、龍山寺の正殿及び左廊も爆撃され、塑像の「釋迦出山」も戦災に巻き込まれている。
この空襲により零式戦闘機、紫電、雷電、疾風などの戦闘機及び九二式重機関銃、93式重機関銃、96式高射砲、八八式75mm高射砲、150mm高射砲などの防空体制が機能不全に陥ったことが判明、その後は台湾総督府により各種学校に対する集団疎開及び防空訓練が推進されることになった。

第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国の同盟国だった中華民国政府は、マスメディアおよび歴史教科書からこの空襲を排除するなど批判を弱めた。

今日という日【5月30日】

■五・三〇事件

1925年5月30日。

五・三〇事件」は、中国・上海でデモに対して租界警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。

1925年5月15日、上海にある日本資本の綿紡績工場の争議中に、工場側当事者が発砲し死傷者が出たことが発端となり、学生らがビラ配布、演説等の抗議活動を行い、5月30日には数千人規模のデモを組織した。上海租界当局および日本、イギリスなど租界の諸外国は強硬に対処し多数の逮捕者が出た。イギリス租界警察がデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働者ら13人が射殺され、40人余りが負傷。これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。