こちらの記念館では、沖縄戦がどういった過程で進み、何が起きたのかを当時の沖縄県民の目線から知ることが出来ます。
 沖縄戦は、北海道の占守島や樺太、小笠原諸島の硫黄島と同じく日本領土で起きた地上戦の一つであり、日本人として忘れてはならない歴史です。
 当時の沖縄はアメリカ軍にとって日本本土侵攻への補給地点として重要であり、日本軍にとってはそれを防ぎ、日本本土侵攻までの時間稼ぎをすることと、あわよくば日本軍に残された航空戦力の総力をもってアメリカ軍に大打撃を加えて講話に持ち込もうといった両軍の戦略と思惑が衝突した戦いとなりました。
 日本軍の沖縄守備隊である第32軍では、沖縄戦が開始される前に主力である陸軍第9師団が台湾に転出された影響でその戦力の三分の一を失っていました。結果、第32軍の戦略は敵上陸地点での決戦を避け、敵を島内に引き寄せ、防衛拠点としての地形条件がいい沖縄県南部に防衛陣地を構築し、そこで持久戦を展開する作戦を立案することとなります。そのため、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いの戦訓を活かした坑道陣地を数多く構築しましたが硫黄島の戦いと違い、沖縄本島にはまだ多くの民間人が残されていました。日本本土への疎開は行っていましたが、輸送船が撃沈されたことによる民間人の不安や、本土に身寄りのいない人の多くは本土へ行くことを拒んでいました。また、次々と集結する日本軍を目の当たりにして希望的観測をする人も多く、本土への疎開はなかなか上手くいきませんでした。沖縄県内の避難として激戦が予想される沖縄県南部から北部への避難も行われましたが、北部が山岳地帯であることや、マラリアの発症地であったことから進んで避難する人は少なく、県内での避難も沖縄県として必死に呼びかけをしましたが、難航していました。
 このように県民の避難が十分でないまま始まった沖縄戦では、米軍が本島中央から上陸すると、日本軍は計画通りに南部へと後退し、首里城を拠点とした持久戦を展開しました。そのため、本島が南北に分断されたことにより、北部への避難は遮断され、多くの県民が日米両軍の砲火に晒され犠牲となりました。また、軍部の投降を許さない方針に従った集団自決や、全ての日本兵ではありませんが、物資や壕を巡り日本兵と県民による争いで県民を射殺した事例、スパイ容疑で日本兵に射殺された事例もあり、極限状態で多くの県民に犠牲者を出しました。沖縄戦で亡くなった県民は約9万4千人と言われ、その内日本軍による殺害は1000人強と言われています。
 このように県民の犠牲を出しながら戦った日本軍守備隊である第32軍(隷下に2個師団)ですが、6月23日には悉くが、玉砕し、軍としての組織的な戦いは終わりました。しかし、この戦いでアメリカ軍は想像以上の損害を出し、それ以降の作戦立案に大きな影響を与えました。それは、沖縄本島の上陸戦でこれだけの被害を出したということは、言うまでもなく一億総玉砕を掲げる日本本土の上陸となれば、それ以上の被害と苦難が待っているということを沖縄戦で痛感させられ、アメリカ軍が本土上陸を行わなかった理由の一つになりました。そのため、結果として沖縄県民と第32軍が未来のアメリカ軍による日本本土侵攻を防ぎ、守備隊としての役目を果たしたということは、敵であるアメリカ軍も認め評価しています。
 しかし、沖縄戦で亡くなった多すぎる県民の犠牲とそのことにより発生した多くの問題が現在でも沖縄県で起きていることを考えると、本州の県民も他人事ではないことがよくわかります。こういった史料館を訪れることで、沖縄県が払った犠牲と現在との結びつきに気が付き、一方の見方だけでは理解できないことをつくづく実感できました。
 また、ここに来て感じることは戦争の悲惨さだけでなく、戦争となれば現在でも同様の事が起きるということがよく分かります。人間である以上、多くの人は本能的な部分を抑えることが出来ませんし、戦争という極限状態はそういったものが表面化しやすいです。 事実、東日本大震災でも震災の裏で多くの犯罪が発生しており、それも戦争同様にそういった部分が浮き彫りとなった結果と言えます。今は理性を保てている人間も、そういった有事が起きれば、人間である以上、誰しもがそうなる可能性を秘めているということです。そのため、戦争も人間の本能で起きているのであれば、それを防ぐことも大事ですが、コントロールすることも大事なことだとこの祈念資料館を訪れ感じました。