ここは大日本帝国陸軍きっての精鋭である義烈空挺隊が玉砕した場所であり、掩体壕の横には地碑が立てられています。

 義烈空挺隊は、もともとサイパン島の米軍爆撃機B29を破壊するために編成された空挺部隊であり、編成以降の厳しい訓練により、特殊部隊として高い練度を誇っていました。サイパン島、硫黄島へ参戦する予定でしたが、いずれも戦況悪化により突入不可能として中止されていました。そして、沖縄戦が始まると、米軍に占領された読谷飛行場と嘉手納飛行場への攻撃命令が下されましたが、軍部の一部では本土決戦に備えて戦力を温存するべきでは?との意見が出ました。しかし、これまで何度も出撃中止を受け、友軍部隊が次々と先に玉砕していく姿をみていた指揮官の奥山大尉は、帝国陸軍最精鋭として訓練してきたのにも関わらず、未使用のままでいては国民国家に合わせる顔がないとして作戦決行を上官に直談判し、正式に出撃命令が下されました。

 既に沖縄の制空権は米軍側にある中で、このような作戦を行ったのは愚かだと思うかもしれませんが、映画もののけ姫に出てくるモロの君は罠が張り巡らせられた敵陣に正面突破する猪たちを見てこんな台詞を言っています。「乙事主とてバカではない。すべてわかっていても、猪たちは正面から攻撃したいのさ。それが猪の誇りだからね。最後の一頭になっても、突進して踏み破る。」義烈空挺隊の兵士たちも精鋭部隊としての誇りと決死の覚悟があったのだと思います。

 そして、兵士たちは遺品を整理し、手元にあった金品を全て国防のためにと寄付すると、5月24日に沖縄へ向け飛び立ちました。襲撃を受けた飛行場の米軍は激しい対空砲火を展開し、隊長機以下六機は次々と撃墜され、飛行場に強行着陸出来たのは、ついに一機のみとなってしまいました。

 しかし、闇夜に紛れ、鳴子の合図だけで飛行場を攻撃する兵士達に米軍は大いに苦戦を強いられ、一時は飛行場としての機能を喪失するほどの大損害を与えましたが、数的優勢な米軍を前に一人、また一人とどんどんとその数を減らしていき、最後の兵士が海岸で戦死したことで、ここに義烈空挺隊の戦いが終わりました。最後の兵士が海岸にいたのは、飛行場攻撃後は海岸に向かい米軍の輸送部隊を攻撃するという当初の作戦を実行しようとしたからであり、最後の一兵になっても任務を遂行しようとした兵士の強い精神が、その行動からも伝わります。

 このように帝国陸軍きっての精鋭である義烈空挺隊は、特殊部隊としての力を沖縄戦で遺憾無く発揮しましたが、この玉砕の地碑にそういった解説や紹介が無いことはとても残念です。沖縄戦で多くの県民が犠牲になったことは紛れもない事実であり、戦後の沖縄が今でもその影響を受けているからこそ、後世に戦争の全てを否定し、彼らを語りたくないことも十分に理解出来ます。

 しかし、彼らがこの場所で、このような過程で戦死したこともまた事実であり、戦艦大和率いる帝国海軍第二艦隊の突入や多くの特攻兵同様に義烈空挺隊の沖縄戦参戦は、戦術上の失敗とはなりましたが、当時の大日本帝国政府が残された戦力を投入し、犠牲を払ってでも沖縄を見捨てようとしなかったことの証であり、行動をもってその意思を示しています。そのこともここを訪れる本州の県民や若い世代の沖縄県民に伝えなければいけない歴史ではないでしょうか。そうでなければ、沖縄戦で亡くなった多くの県民と戦死された英霊が報われないどころか、後世の沖縄県民と本州出身の県民との真の和解が実ることはないのではないでしょうか。

 また、現在、沖縄や九州地方の自衛隊は年々その規模を拡大し、緊張の高まる台中関係に備え、守りを固めようとしています。本州の国民はそのことに注目し、この地域を守るためにあらゆる側面からの議論を急ぐ必要があります。そして、間違っても遠い離島の出来事だと他人事だと思ってはいけません。地理的には距離が離れていても、その感覚まで距離が離れてしまわないためにも、こういった史跡を訪れることの重要性を感じることが出来ました。