ここには、日露戦争時に亡くなった橘陸軍中佐が主祭神として祀られています。
この神社は東宮武官、名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し、人望深い教育者として尊敬されていた橘中佐の教え子達や部下達により、建設まで時間がかかりながらも創建されました。
橘中佐は大正天皇が皇太子時代の教育武官も努めており、相撲好きだった大正天皇に対し、組手で他の武官が手加減する中、橘中佐は手加減せず、真の体力と精神力を鍛えました。また、大正天皇自ら始めた1か月に及ぶ剣道の稽古にも橘中佐が相手を務め、1日も休むことなく稽古を達成した際には涙を流し喜んだそうです。こうした甲斐あって、幼少期は体が弱く、病弱で心配されていた大正天皇でしたが、心身ともに成長することができました。
その後は、名古屋陸軍地方幼年学校長に任命され、登校初日の会ったこともない生徒の名前を言い当て、対面前に全員の顔と名前を事前に写真にて記憶していたことで、入学生を驚かせました。
そして、日露戦争が開戦すると、激戦地となった遼陽会戦に参戦し、前線での指揮を執り、8月31日に自ら先頭に立ち、敵陣を突破しましたが、敵弾を受けて戦死してしまいました。奇しくもこの日は大正天皇の誕生日であったことから、死の間際まで陛下の誕生日への祝いの言葉と亡くなった部下達への謝罪を口にして息を引き取りました。この時の大正天皇の心境を思うと、胸が痛みます。
このようなエピソードから、橘中佐が軍人としてだけでなく、人として尊敬されていたことがよく分かります。
現代の感覚からすると、亡くなった英霊や軍属の方を神として祀ることに抵抗を覚えることは当然に思えますし、それは当時を生きた先人より強く感じるかもしれません。
確かに軍人でなければ、このような神社として後世には残らなかったでしょう。日本軍が正式に軍神を制定する前の神社ではありますが、その後の大戦期の日本にとって軍人を神格化することのメリットは確かに大きかったはずです。
しかし、軍人という職務についているからといって、その人の人間性や人格を否定することは出来ませんし、現在でも軍隊の残る国であれば、この神社に対する印象は違っていたと思います。
橘中佐を知ると、軍人という枠を超え、偏見を持って見るべきではないと感じ、この神社を軍国主義の象徴として批判することも極端な見方ではないかと思いました。
自分はこの場所に来て、どのような形であれ、後世にこの方の精神やその姿勢を伝えていけたことに感謝したいです。