ここには、日露戦争時に亡くなった広瀬海軍中佐を始め、戦争で亡くなった方をお祀りしています。
 広瀬中佐は近代柔道の父、嘉納治五郎の「柔道は技を覚えるだけでなく、これによって鍛錬された心身をもって、学者・官吏・商人・軍人などの何なりとも、国民としてなすべきことを自ら選んであたることである」との教えに感激し、「講道館」へ入門しました。
 それ以降、艦隊勤務になっても柔道を続けていたため、広瀬中佐は常に、門下生のトップグループにおり、講道館殿堂入りも果たしています。
 また、ロシアの駐在武官時代に知り合った、ロシアの高名な医学者であるフォン・ペテルセン博士と親しくなり、その家族とも文通を通じた交友がありました。
 そして、日露戦争が勃発すると、広瀬中佐は、ロシアの太平洋艦隊を旅順港に閉じ込める作戦である旅順港閉塞作戦に従軍し、閉塞艦である福井丸を指揮していましたが、敵の魚雷攻撃を受けたため、全員に退艦命令を行いました。
 しかし、自爆用の爆薬を点火させるために船倉に向かった杉野上等兵が居ないことに気づき、すぐさま沈みゆく船に戻り、三度船内を探しますが、発見に至らず、やむなく退艦する際に敵弾が頭部に直撃し、戦死しました。
 後日、広瀬中佐の遺体はロシア軍により発見され、敵軍であり戦時中でありながらもロシアは広瀬中佐を丁重に葬儀し、埋葬しました。
 この戦死を知った嘉納治五郎は人目もはばからず号泣し、広瀬が戦死した際に持っていた血塗りの海図は現在でも講道館2階に保管されています。
 そして、交流のあったフォン・ペテルセン博士の令嬢、マリアからは、広瀬中佐の喪失による悲痛の言葉が、広瀬の兄嫁である春江宛に送られた手紙にて書かれていました。下記はその一部を抜粋したものです。
「私どもはあの方の情け深く誠実な、お心を決して忘れることはございません。あの方は本当に偉大で、高貴な、たぐい稀なお方でございました。私はあのお方のことを考えますたびに、いつも、熱い、心からの友情と、それのみならず正真正銘の驚嘆の念とを感じたものでございました。」とあり、締めくくりには、「それにしましても、おそらくは御家族の方々にとって唯一の慰めとなる思いは、あの方が、御自身からお望みになった通りの御立派な最期をお遂げになったということでございましょう。あの方は愛する、尊い祖国のために英雄として死んでゆかれました。そして、あの方の思い出は永遠に、歴史の中に、御家族の心の中に、又友の心のなかに生き続けてゆくことでございましょう。」とあります。
 現代の感覚からすると、国のために命を捧げることで、祖国の英雄として後世にその名が伝えられ、多くの人々が、その墓前に手を合わせるといった考え方は、異常な忠誠心や教育による洗脳に感じるかもしれません。
 しかし、そうでもして考えなければ、兵士は死地になるかもしれない戦場へ赴くことが出来るでしょうか?残された家族の悲しみを少しでも慰めることができるでしょうか?
 この手紙からも分かるように、人間である以上、戦争という特殊な環境下では、そう考えることが万国共通であると分かります。
 そして現在、平和憲法下の日本国民から映るこの神社を思うと、そう信じて亡くなっていった多くの英霊があまりにも可哀想に感じました。