第二次世界大戦末期、ドイツの降伏によりヨーロッパ戦線が消滅したソ連では、その戦力をアジア太平洋側に移動させ、大日本帝国との不可侵条約を破り南樺太、内蒙古、満州に侵攻していきました。南樺太、内蒙古では第88師団や第118師団が激しい抵抗を続けていましたが、満州は蹂躙され、8月18日にソ連軍総司令官は北海道北東部までの進撃と占領を各部隊に下令し、同日未明、遂に千島列島への侵攻を開始しました。
ソ連軍は、まず千島列島の最北に位置する占守島に対して先制攻撃を行います。これを受け同島の帝国陸海軍守備隊は、この方面を管轄する第5方面軍総司令官である樋口中将に報告し、対応を求めます。大日本帝国軍は、既に8月15日のポツダム宣言受諾により武装解除の最中でしたが、樋口中将はソ連の目標が北海道であることを見抜き、独断にて千島列島を防衛していた第91師団に自存自衛の為の徹底抗戦を下令、師団及び隷下の部隊は武装解除中でしたが、士気旺盛にこれに対応します。
もともと占守島はアメリカとの本土決戦に備え、樋口中将の指示により要塞化されていましたが、不意を突いたソ連軍の攻撃により、戦線は押され、ソ連軍は島中央部にまで到達していました。占守島を防衛していた第91師団隷下戦車第11連隊を率いる池田大佐は、この下令を受け反転攻勢に転じ、猛攻の末にソ連軍を上陸地点である海岸線にまで押し返しますが、陣頭指揮をとっていた池田大佐は敵弾を受け戦死してしまいました。
そして、8月21日に軍上級から戦闘停止命令があったことで帝国陸海軍は攻撃を停止し、大日本帝国の武装解除をもって占守島の戦いは終わりました。しかし、勝敗が明らかであったことから陸軍兵士は涙を流しながら武器を置きソ連軍に投降しますが、そのほとんどがシベリアに抑留され、帰らぬ人となりました。
当時の大日本帝国は知る由もありませんが、南樺太と千島列島は戦時中に行われたヤルタ会談によって、アメリカがソ連の対日参戦の見返りとしてソ連に渡すことが決まっていましたが、ソ連はそれに加え、南樺太と千島列島の占領を足掛かりとした北海道北東部までの侵攻も目論んでいました。
しかし、大日本帝国軍の激しい抵抗によって電撃戦が失敗したソ連軍はその目的を達成することが出来ず、大日本帝国軍の防衛戦により、占守島の戦いは、大日本帝国側の戦略的勝利となり、結果、戦後の日本は北海道の防衛と領有に成功しました。
戦後、ソ連は樋口中将の身柄引渡しを要求しましたが、樋口中将は戦時中に多数のユダヤ人難民を助けていたため、ユダヤ人協会がアメリカに圧力をかけ、引渡しを阻止してくれました。
また、これ以降も組織的ではありませんが、インドネシア独立戦争や台湾防衛戦で帝国軍人が活躍し、それらの勝利に貢献しています。
この戦いを知ると樋口中将のような英断を下せる指導者や、戦争が終結し帰郷を夢見ながらも北海道防衛のために命をかけて戦ってくれた多くの英霊のような人たちが、今の日本国にいるのだろうかと失礼ながらも思ってしまいます。戦後の歴史教育の在り方やその影響が、有事によって悪い方向へ証明されないことを祈るとともに、良い事も悪い事も行った大日本帝国を知る事で、それらから学び、少しでも愛国心を抱く人が増えてくれることを願っています。