「皆さんは知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そしてそれを活用することによっていっそう有効な道具となる義務があります。」

 これが今まさに自分のしなければならないことです。何をしてすごそうかとあれこれ悩むまでもなく、義務であると言われたからにはこれに集中しなくてはなりません。一見すると命令口調で自由意志を否定しているかのようですが、義務と捉えるのも、具体的に何をするのか考えることも自由です。

 むしろ知識があると自覚した以上は自然にそのように考えるはずだとの導きであり、ありがたいことです。

 知識が有効に働くためには種が播かれたことのない場所で、耕したり土壌改良したりした上で種を播くということで、いずれにしても畑に出かけることから始まるのであり、いつまでも霊的知識愛好家どうしのサロン(自分で言っている段は世話はないですが)でくつろいでいてはならないなと、そう感じます。

”収穫は多いが働き人が少ない。収穫の主に願ってもっと多くの働き人が起こされるように祈りなさい”とは言われますが、祈る以外にどんな行動ができるでしょうか。

「これまで私は、皆さんが愛を絆として一体となるように導いてまいりました。」

「また私は、そうして学んだ真理は他人のために役立つことに使用する義務があることをお教えしました。」 

「この絶望と倦怠と疑念と困難とに満ち溢れた世界にあって私は、まずはこうして皆さん方に霊的真理をお教えして、その貴重な知識を皆さん方が縁ある人々に広め、ゆくゆくは全人類に幸せをもたらすことになるよう努力してまいりました。」

 以上をまとめると、私たちの出かけていくべき畑は、物質中心、利益中心のこのすさんだ日常社会であり、そこで常に霊的家族愛を発揮し続け、何か役に立てるチャンスが有るごとに、知識のタネ(になるようなコト)を(時には背中で)撒き続けるということになるでしょうか。

(「シルバー・バーチの霊訓9」1章)