一年もこの時期になるとどうも騒々しくていけません。こんなときは忙中閑ありと行きたいですね。そしてこんな時こそ内なる神の国に立ち帰られる人は本当に強いと思います。

 まわりが騒々しいとついそれを受け入れまいと思って守りに入ろうとするので、結局心がそれに振り回されてしまいます。心を騒がせてしまうのです。しかしここで神の国に帰れる人は心を静め、新しい状況を素直に受け入れる余地を開くことが出来ます。

 この一連の過程を一言で言うと祈りになるのだと思います。

「祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間だけでも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。」

 しかしちょっと待ってください。祈りといい神の国といい、いかにも崇高な世界のできごとのようですが、そういうものでなくても心を静め、穏やかにし、少しは受容力を高める方法があります。自分の好きなものごとについて、その世界について意識してみるのです。

 服とか時計のこととか、旅とか、ミステリー小説のこととか自分の趣味の世界、自分をワクワクさせてくれるもの、それらについて考えることは妄想にすぎないかもしれませんが、神の国は広く多様性にとみ、その裾野にはそういう世界も含まれると思うのです。

 シルバーバーチはこう語っています。

「では誰に、あるいは何に祈るべきかーーーこの問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人一人に個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。」

 妄想によってでも心を静められるのであれば大いに結構。それを足がかりとして神の国の探索を始められれば良いのではないかと思うのです。(「シルバー・バーチの霊訓7」11章)