永遠の命という言葉を最初に知ったのは聖書でしたが、それによるとイエス・キリストを信じたものだけがそれを得られるという、信仰目標のようなものでした。しかしその話は、人間の命を地上人生を超え肉体の生死を離れて考えることができない時代の人々によって作られたものでした。永遠の命というのは目標ではなくて、神からの遺産(こう言うと神は死んでいるのか、ということになりますがそうではありません。だから寄贈と行ったほうが良いのかもしれません)としてすべての人にすでに与えられているものなのです。おおげさに永遠の命などと唱えなくても、(この3次元の世界とは異なる世界で)私たちは永遠に生きるのです。それが当たり前なのです。

 この素朴な真理を信じられるかどうか、それがその人の人生をどれだけ大きく左右することか。

「若くして(地上の年齢で言えばのことですが)真理に目を開かせていただいた恵みを感謝しなければなりません。煩悩の霧が晴れ、その霊的真理があなた方の心に居場所を得たことを喜び、それがあなた方に真の自由をもたらしたように、こんどは他の人々へもその自由をもたらしてあげなくてはならないことを自覚してください。」

「どうか皆さんはこの同志の集いを超えた広い視野をもち、世の中には素朴な霊訓のひとことが啓示となり次々と自由を手繰り寄せるきっかけとなる人が大勢いることを知っていただきたいのです。」

(「シルバー・バーチの霊訓2」2章)

 貧しかろうと孤独であろうと失敗ばかりであろうと、永遠に生きるとわかればいくらでも展望が開けます。この素朴な真理がどれほど人を自由(真の自由)にしてくれることか。逆に地上の資産に心を奪われていると縛られてしまいます。だから資産家が天国に入るよりラクダが針の目を通る方がよほどやさしいとイエスは言われたのだと思います。