車に轢かれたのでしょうか、今朝道端に小鳥の死骸が落ちていました。私もゴキブリやバラに付く虫を見つけたら潰すので人のことは言えませんけれど、人間はなんて殺生なことをする者か。その昔お釈迦様は春から夏にかけては外を出歩くと虫たちを踏み殺してしまうからと屋内で修行するようお弟子たちに命じたそうです。それに比べて現代人は本当に殺生をして気にもとめません。ミャンマーでは仏教徒がロヒンギャの人々を迫害しているとも聞きます。

 そんな殺生な場面に遭遇した瞬間、心優しいみなさんならどうするでしょうか。死者のことは死者にまかせるしかない、でしょうか。そうした思いも含みつつもっと短く思わず口にしてしまう名前があるのではないでしょうか。神よ、とか、南無阿弥陀仏とか。しかしそれは口先だけ自分の精神安定のためだけではなく、今でも実際にそれ以上の効果があるのです。もう少し正確に言うと、思いを集中し念じた時に、その名前は効果を発揮するのです。

「どうかますます大きくなった私の家族ともいうべき方々によろしくお伝え下さい。そして目にこそ見えませんが私がその家族の一員として常に目を離さずにいると伝えてください。ただの挨拶の言葉として述べているのではありません。実際の事実を述べているのです。決して見捨てるようなことはいたしません。援助を必要とする時は精神を統一して私の名を唱えてくださるだけでよろしい。その瞬間に私はその方の側に来ております。」

 神よ、でも、南無阿弥陀仏でも、シルバー・バーチ様(ちょっと長すぎますが)でも、名前はそれぞれでいいのです。その人にとっての守り神を念じてその名を呼ぶことです。その存在(正確には背後霊)を念じて呼ぶ時に、その存在は側にいてくれます。そして私たちを支えてくれるのです。

 ただし、その存在は心の支えにはなってくれますが、私たちが耐え忍ぶべき宿命を減らすことはしないのです。

「困難に遭遇しないようにしてあげるわけにはまいりません。躓かないようにと、石ころを全部取り除いてあげるわけにはいきません。ただ、たとえ躓いても、転ばなように手を取って支えてあげることは出来ます。肩の荷を一緒に担いであげることによって苦しみを和らげてあげることは出来ます。同時に喜びもともに味わって一層大きくしてあげることも出来ます。」

(「シルバー・バーチの霊訓2」2章)