「大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者もいくらかおります。が、霊的生長に関心を抱くものはきわめて少数に限られております。永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間に霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分という存在の拠って来る原因を知ります。これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。」(「シルバー・バーチの霊訓1」5章)

”霊的成長(生長)”という言葉だけを聞いてもその中身はよくわかりません。もちろん身体のそれと違うのは明らかですが、精神的成長との違いはどうでしょう。口では霊的成長と言っている人も、実は精神的成長とほとんど同一視しているのではないでしょうか。

 最近自分の中で、霊=生命ということで、霊的という表現を生命的とか生命の、と置き換えるのがブームなのですが、ここでも霊的成長(生長)を生命的成長と置き換えてみるといかがでしょうか。私たち個々の小さな精神ではなく、根源的生命、神の大生命へとつながる成長のこと、というイメージになるのではないでしょうか。とするとこれは精神的な成長とは非常に異なるものであることがはっきりしてくると思うのです。次元のまったく異なるスケールの大きな話なのです。