「”地上世界を救う”ですか。救うのはわれわれではありません。地上の人間の一人ひとりが自らの努力で救わねばなりません。」

 救いは少なくとも他力本願ではだめですね。南無阿弥陀仏で救われたと思われたのは何百年も前の話ですよ。その当時だったらいろいろ今ほど恵まれていなかったでしょうから、”嘘も方便”で他力本願も有効だったのでしょうが今は時代が違います(とはいえ今でも”通過点”としては機能するでしょう)。

 では救いは自力によるものかと言うと、そうとも言えるしそうでないとも言えます。自分で自分を救うのはそのとおりだとしても、”力”の部分が気になるのです。単純に自らの努力で救うから自力救済になるのでしょうか。自分でしゃかりきになって自分自身を救いへと引っ張り上げるイメージは、真の救いにはないように感じます。むしろ気づいてみれば自分はすでに救われていた、というのが近い感じです。

「既成の手段というものはありません。有り合わせの手段ではだめなのです。

 その(救いの)ためにはまず、生命現象と呼ばれているものの背後に”霊”という永遠の存在があることを学び、従って地上世界の人間はただの物的存在ではなく、その物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識する必要があります。」

 自分とは目に見える自分だけではない。目に見えない巨大な永遠の真我、大霊が控えている。そのことに気づくと今まで重荷と感じていたことが溶解していくのです。

「そうなると、物的身体は大霊が意図された通りに生活に必要なものを必要な時に必要なだけ手に入れて、常に健康であらねばならないことになります。そして精神はあらゆる宗教的ドグマと教義による束縛から解放されて、実質的価値のないもの、霊的価値のないものに忠誠を尽くすような愚かなことはせず、真実のものだけに精を出すようにならないといけません。教義やドグマのことで論争したり口論したり、はては戦争にまで発展するような幼稚なことは止めないといけません。」

 〜してはいけません、〜であらねばなりません、というのは救われているならそんなことはありえないはずだとの思いがあるからです。救いは力によるのではなく、自らが霊的存在であると気づくことによるのです。自らの努力はその認識へと至る道すがら必要になるのです。(「シルバーバーチ愛の摂理」206頁)