ここのブログのタイトルである「霊性の目覚め」を別の表現で表すなら”霊力による洗礼”とすることができます。それはどういうことかというと・・・

「ここにいらっしゃる皆さんは本当の意味での洗礼、すなわち霊力による洗礼を受けておられるのです。霊的に蘇ったのです。魂が真実の自我を見出す道へ導かれ始めたと言ってもよろしい。

 霊的なものが皆さんの生活の中核となり、実在感とともに確信というものを覚えるようになります。その確信が精神のすみずみまで行き渡り、魂がやすらぎを覚え、心が愛に満たされます。それが大霊が最高に顕現した時の状態です。」(「シルバーバーチ愛の摂理」198頁)

 霊力による洗礼は霊的人生の最初の一歩のようなもので、それはやがて最終的には大霊=神が最高に顕現した状態へと至ります。

 先日引用した箇所で、人間の霊性が奉仕、自己犠牲、理想主義を通して顕現したときに、もっとも大霊に近しいものとして現れるというように書かれていたと思います。

 いわば痛みを味わいつつも、そこを貫くように霊性の表出にこだわり続けることで、より深く大きな霊性顕現が可能となるということでありましょう。

 これは何に似ているかと言うと筋トレです。愛の筋トレ。否定され拒否されても愛する(敬い大事にする)、右の頬を打たれたら左の頬をも差し出し、迫害され傷つけられても愛する。そんな自己犠牲の結果殺されることになるかもしれませんね。そんなこと可能でしょうか。果たしてそこまでしなくてはならないのでしょうか。

 しかしイエスはそのようにされて神に近しい姿を顕現されたのでした。