生命の萌えいずる春になると、社会の様子も少し新しくなって見えるからでしょうか、人々の中には何かに駆り立てられているような錯覚を覚える人もいるのかもしれません。
 そして、人が原因の悲惨な事故がこの時期に多発しているような気がするのは、そんなことと関係があるのかもしれません。
 10年前福知山線の脱線事故がありました。先月には飛行機事故があったし、一年前の昨日にはセウォル号の事故がありました。
 死ぬこと自体にはあまり恐怖は感じないのですが(実際死の瞬間はほとんどの人が意識不明になっているそうです。霊格がかなり高い人はそうならずに、自分が死ぬ瞬間つまり肉体と霊体の繋がりが切れるのを意識できるそうです)、それに至る苦痛を思うととても耐えられません。特にセウォル号では若者たちがどれほどの恐怖と苦痛に直面したかと想像すると、胸がつぶれる思いがします。
 人が起こす重大な事件、事故の裏には当事者・関係者が何らかの抑圧・軋轢・焦燥感・無力感・疲労感に苛まれていて、それがつもりつもって一気に爆発するようなところがあると思います。余裕のあるうちにこれではいけないとリセットできればいいのですが、複雑な利害がからんでそう簡単にはいかないのでしょう。やはり問題が小さなうちに芽を摘むというか、日ごろから微かな違和感に敏感でなければならないのだろうと思います。
 気付きは心の窓を開いていないと入ってきません。自発的内発的に使命感に燃えて一生懸命なのであれば、疲れを疲れとも思わず心にもある程度ゆとりがあると思いますが、周りから追い立てられてしゃかりきになっている時は要注意です。忙中閑ありというか、そのような生活の中にこそ追い立てられない時間をしっかり確保しなければならないと思います。