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集めたワードプレスブログ。

 
 

  ​誰かの無理は前提としていない

 支援や配慮という言葉について、

一部の人は「自分を犠牲にして、

相手を手伝うこと」という

捉え方をしていることに気付いた。


自分自身は子ども相手に対して

自分を犠牲にしようと思っていない。

不快なことは不快と言うし、

出来ないことは出来ないと言う。


支援や配慮を考える時も、

相手がしてほしいことや

相手に対して有効そうな介入の内で

『自分にとって簡単に出来ることを探す』

段階であって、

負荷が大きいものであれば

他の方法を考えるか却下する。


何故なら継続性・一貫性も大事だから、

「ずっと続けていけないこと」は

「出来ない」ことと見做す。


なので、話し合いで

「出来ないことを強制される」

イメージがなかった。


出来ないことが要求されるのが怖ければ、

むしろ事前にお互いの

出来ない・出来ることの洗い出しを

する流れが決まっている方が

いいと思うのだけれど。


支援への不安・恐怖・抵抗感は

抱かれがちだから、

「当事者を含めてそれぞれが

出来ることをする=出来ないことはしない」

イメージが広がるといいし、

支援という言葉とは繋がりにくいから

市川沙央先生が表現したように

『合理的調整』の呼び名がいいかも。


 

 

 
 
 
 

 

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