フラワーモチーフジュエリーブランド
セレンディップジュエルの
天生目理香(Nabatame Rika)です。
今日は1日看護師をしていました。
ちょっとだけ疲れました。💦
このブログは今落ち込んでいて出口が見えない人に読んでいただきたくて書き始めたものです。
あと何回かで終わりになる予定です。
事故の加害者を許せないという思い、母が可哀そうだという思いがこみ上げて止まらなかった。
数回の手術とリハビリを終え、母が無事退院できて安堵したのは、ほんのつかの間だった。退院から数週間、母の精神状態が変調をきたしてしまったのだ。
肉体が崩壊するほどの大きな事故。死の淵でどちらに行くかわからない状況から、たくさんの方々に支えられ、ようやく退院できたというのに…。
話も通じない。
目の焦点も合わない。
話す内容も現実とは違う事ばかり。
表情も普通ではなかった。
心配した兄から何度も電話が来た。
私も心配で何度も電話をした。
「もうお手上げだ…」
最後に兄はそう言った。
「そんなはずはない」。そう自分に言い聞かせた。
心配でたまらず、急いで長野の実家に帰った。母に話しかけたのだが、やはり様子は同じだった。
可愛がっていた犬に見向きもしない。
かわいい孫たちの話をしても、話にのってこない。
ずっとベッドで横になったまま、食事も食べようとしない。
それだけではなかった。
時計が壊れている。
お風呂が壊れている。
洗濯機が壊れている。
テレビが壊れている。
などと、家の中のあらゆるものが壊れていると言い出した。
肉体の次は、人格が崩壊したかのようだった。
「この人は、母ではない」。そう感じた。
事故から回復するまでにエネルギーを使い果たし、認知症になってしまったのか。
事故で頭を打った後遺症か。
それとも、事故のショックで精神疾患になってしまったのか…。
「何もできなくなっちゃった…」
入院中から母は、不自由な体を見つめてはつぶやくことがあった。
入院していた7カ月もの間、1人で治療とリハビリに耐えていた母。
リハビリのために入院した病院の作業療法士さんから後で聞いた話なのだが、最初に救急搬送されて治療を受けていた病院の理学療法士さんから、病状と共にこんな申し送りがされていたそうだ。
「我慢強く頑張る方なので、あまり無理はさせないでください」
自宅近くの病院の内科で処方された薬を飲んでも、その精神症状は落ち着く様子はなかった。
むしろ、薬を飲むと余計にひどくなるようにさえ感じられた。
医師が処方した薬を勝手に止めるのは危険だとよく分かってはいるが、止めずにはいられなかった。
「もう飲まないで」
「あんた医者じゃないんだから、薬返して! 早く帰って!」
きつい口調で言われた。
母から「あんた」と呼ばれたことも、「早く帰って!」と言われたことも今まで一度もなかった。
やっぱり、母ではない。
強くて優しかった母がどこかに行ってしまった。
肉体はそのままあっても、もう母とまともに話をすることはできないのだろうか…。
自宅から少し離れた場所にある心療内科に連れて行ってみたが、足のマッサージをしてもらい、漢方薬を処方されただけだった。
何も状況は変わらなかった。
絶望感と無力感でいっぱいになった。
「人格」がどれほど大事なものなのかを思い知らされた。
人格が崩壊してしまった母を見るのは、肉体が崩壊した時の母を見ていた時よりもつらかった。
一生懸命に生きてきた人が何故、こんなことにならなくてはならないのか。
家族はもちろんだが、何より本人がどれだけつらいだろうか。
母の回復をずっと信じて頑張ってきたが、私たち家族がどんなに話しても説得しても変化の兆しがない。その状況に、あきらめの気持ちが出始めていた。
お正月だと言うのに、我が家は沈んでいた。
どんなときも温かく明るく迎えてくれた母がいなくなってしまった家は、寒々しく感じられた。
これからどうしたらいいのだろう…。
娘の受験を控えていたため、ずっと母につき添うこともできず、心配しながらも那須の自宅に戻った。
「ママは私よりおばあちゃんが大事なんでしょ!」
事情がよくわかっていない娘にもなじられた。
娘にも本当に可哀そうなことをしていると、自分を責めた。
娘に事情を話し、謝りながらも、どうにか受験が終わった日の翌日夜のことだった。
母が倒れて救急搬送されたと兄から電話があった。
夜の高速道路を走り、長野に着いたのは深夜0時を過ぎていた。
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