皆さん、明けまして おめでうございます。今年の我が家はのんびりしたスタートとなりましたが、石川県で大きな自然災害が発生しました。

 このたびの石川県能登地方沖で発生した地震により、被災された皆さまや関係する方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。TETSU家は、この災害に対して大谷翔平選手やYOSHIKIさんほどの資金援助はできませんが、ここ松山市にも市役所に募金箱が設置されましてので、支援の協力をさせていただきたいと思っています。

 実は、もう7年前(平成30年)しょうか。結婚25周年を記念して奥様と北海道・東北旅行に行きました。その中で、宮城県の「女川」を訪れたことがあります。その年は、さる馬鹿者(失礼)大臣が、「復興よりも選挙です。」と訳の分からない言葉を述べられ、失脚するという事態が発生しました。当然です。東日本大震災は、未曾有の自然災害で、復興にも多大な時間を要しています。ここでは、「います。」という表現が正しく、平成30年の時点で震災より約10年が経過していましたが、まだまだ復興途中であったんですね。

 その年の「仙台七夕祭り」では、一番中央の通りに仙台市内の小中学生全員が復興を願って作った千羽鶴が吊されていました。自分は、愛媛県の人間ですが、この機会に復興の現状確認と何某かの支援をする目的で「女川」まで足を伸ばしました。

 「女川」は、宮城県の東海岸に位置し、町全体が壊滅的な被害を受けた町でした。観光客の方は、ほぼ観光地として有名な「松島」まで行って、「瑞巌寺」に行き、「牡蠣フライ」を堪能して仙台に帰るというルートを辿ります。

 ですから、「松島」から東に向かう列車は、途端に乗降客が減ります。そんな中、「石巻」を過ぎた辺りで地元の方と相席になりました。その方から、「どちらから?」と聞かれたので、「愛媛からです。」と答えました。愛媛から「女川」に向かう列車に乗っている二人にとても驚いた様子でした。その方は震災で家が倒壊し、命かながら避難したそうです。その際、旦那さんが大きな傷害を受け入院生活になりました。しかし、「女川」の病院では治療が困難となり、現在は「石巻」の病院に転院したということでした。高齢の方でしたが、毎日のように「石巻」までお見舞いに行かれているということでした。当時の様子をお聞きしましたが、ずっと涙を流されながら語る姿に、夫婦共々涙が堪えきれませんでした。「女川」では、微力ですが自分としてできる支援をさせていただきました。

 長くなるので、このあたりにしますが、今も復興は続いています。年末のスペシャル番組で、WBCの世界一にも貢献した佐々木朗希選手が、震災を受けた実家の「陸前高田市」を訪れるという場面がありました。現在でも、ほぼ野原と化している故郷を見つめる彼の心中を考えると、本当に自分も心が張り裂けそうでした。

 これから石川県の方々は復興に向けて、前述のような想像を絶する苦難があると思います。ですから、同じ日本に住む人間として、自分にできる支援をしていく必要があります。その支援の輪がどんどん広がって、みんなが助け合って共に生きていける社会が実現されることを願っています。