新聞にニュースが載る。それは傷害事件殺人だったりします。
ニュースに注目すると加害者は、被害者に浪費した、金と時間と労力が重視されず、
自分が拒絶されたから犯行に及んだという。
しかし、その初回のニュースを額面通りに受け取るわけにはいかないとしても、
ある事実があったことは否定しにくいでしょう。
それは加害者がなにかを使用したという事実です。
『資本主義と労働による価値パニック』
資本主義市場の競争原理により、価値は混乱しています。
じっさい、インフレやデフレが発生しているわけでありますし、
金利というものがある以上世の中は 自然とインフレしている。
同時に競争が激しいと価格も下落する場面は必ず出てきます。
そしてそのなかには我々の必ず労働が組み込まれており、
労働の価値の切り下げは価格の切り下げに繋がるケースがたしかに存在しています。
この日々の混乱のなかで、もしもあなたの労働の価値が評価されず切り下げられたら?
いや、ほとんど評価されないかもしれない。
そしてあなたの所有している金銭、あるいは使用した金銭の価値は、ある日、取るに足らないものとなる。
あなたは商品を格安で買えるかもしれないが、
商品に存在する価格があなたの支払う労働や金銭の評価を間接的に混乱させるかもしれない。
この価値の混乱は、さらにあなた自身の存在を不確定なものに晒してしまうかもしれない。
企業があらゆる手段で調整を計るとき、それは社会の経済活動に影響するし、
当然あなたはそこでいつでも旨い思いを得る選民そっくりの幸運な人間になるわけではない。
しかし、得はしないが損はしないと考えるかもしれない。
でも金利が下がっているだけで借金の返済には有利でも、
安全志向のあなたはたいした利息を得ることはできない。
もちろん、資金を銀行に預けるだけですら有利になれる、
だからといって損が、価値の下落、混乱から逃れられるわけではないけれど。
『消費者という強権を通して眺める無償のなかでの価値ギャップ』
こういった価格に含まれる価値パニックに晒される人間は、
あるとき、本来、無償であり、社会に全責任を問えないものの、そういった類の人間の希望を、
過大視するか無気力にする。
あなたが幸せでないこと、特に、無償の奉仕が求められてしまう分野において、
あなたがかけた資金と労力と時間、そのあいだに受けた価値の混乱の傷、
は尊重されるにしても対価を認められるとしても、
特別に根本的に物事の基準を変えるほど重要視されない。
そうするには個人というよりも集団として長い期間の運動をしなければならなくなってしまう。
ここでは集団の奉仕が意義あることをうむであろうと仮定しておいて、
個人の奉仕に注目していきましょう。
まずあなたの個人的な奉仕は、愛のためへの対価としては無償となってしまうこと。
とする時、価値パニックはいかにしてあなたの健全な欲求、奉仕の満足を歪めてしまうのか。
あなたは価値パニックを通して、
無償となってしまう、また人間の気持ちしだいのことに対してあなたは自分の払った価値を考えてしまう。
あなたは自分の無償の行為を受けた者を恨み憎む。
だがそれはあなたがただ価値ギャップに気づいていないせいかもしれない。
あなたが消費者としてある商品とサービスに注文をつけられるように、
それが実現したときは、価値は下落しているのだから、
あなたの無償の行為もそのように眺めれば相当に下降曲線を辿っていくことは避けられない。
といっても無償の愛は最初から数値をゼロにさせてなりたっているのだけれど。
真実、愛のための無償への還元に価値を見出すなら、
支払った対価を惜しむのは、愛への裏切りでしょう。
あなたは金が惜しいというだけで気持ちは本物だと言うこともできる
しかし、自分へ与える自己愛がほぼ正しいのなら、
それを他者に応用したはずなのになぜ急に惜しむのだろう。
あなたは生存してきた日々を数えて毎日の食事代累積して金額を出すことができる。
でも生きているいまを度外視して、「こんなに金をかけたのは馬鹿げたことだ」と考えるのは、
自分に責任のない賭けの勝ち負け、金銭の動きに悪戯にこだわるように、無責任なことだ。
現在から過去を眺め、いまあり得ること、過去に欲したために、
あなたは賭け事よりも、無償の愛に忠実になったのだから。
たとえ人間が後悔をできるといっても、生まれたこと、生存してきたこと、愛への賭け、
それらまでを後悔してしまうのは、あなたがそういった掛け替えのないもの、
おそらく実現したであろう可能性と実現のすばらしい結果を侮蔑することになるし、
きっとあなたはそれらの無償を必要とする行為と欲求を打算的にだけ考えてしまっていたのだ。
またここに消費者として自分の価値を価格に投影して、商品に間接的に接していた価値パニックを、
あなたは自分そのものの存在、価値として、考えてしまい、
それらの否定を自分の人格の否定とかんがえるかもしれない。
『消費者としての自分の価値を、無償の生活にまで適用しようとしている』
こんなことがあるだろうか? 有償によって無償の愛まで確約させることができるでしょうか。
それが実現したとき、本来は崇高とされる無償の愛の営みは形骸化してしまう。
そこにあなたが消費者として、
まるでクレームセンターに苦情をいうように誰かになにかを要求しだすだろう。
自分はこれだけのことをやったのだ、望めるのだ、と。
しかし、価値パニックによってその労力というもの価格というものは限りなく不確かであり、
あなたもその要求したところの価値が判断できなくなり受け取りようがないだろう。
行動ならまだしも、あなたの望んだものが相手の心理に絡むものだとしたら、どうなるだろう!
でも無償の愛の範疇はあなたの有償のもの、労力を、頭上の空で置き去りにすることができる。
無償の愛を装っていたあなたの有償の愛は、そこで価値ギャップに奉仕の世界に連れ去られてしまう。
無償の愛の生活で、有償に価値を置くこと、これはあなたを無償を与える消費者として変貌させてしまう、
ことはすでに述べました。
消費者はそのなかに必然として価値のパニックと価値のギャップを呼び寄せる。
もちろん、無償の愛のために僕達は仙人のように生活することはできない。
それでもなお、愛には金と労力がかかるという考えは、大事な事を見落としている、といえる。
なぜなら、この社会は数千年前より、なにをするにも価値と労力をやりとりしてきました。
現代は、金貨と奴隷の世界から、愛と平等の世界を目指している。
そしてそれは人間である限り、普遍的に約束されているものだし、
その約束は、愛と平等を実現させるために、その権利だけでなく機会とその実現を含んでいます。
そしてその実現は人間の無償の労力と資金に依存している。
だからこそ愛は無償であるうえに、
労力と資金も無償の愛のなかのさまざまな実現のためにある範囲が無償とされる。
いったい、人を殺してやろうとするような無償の愛が存在しているでしょうか。
それともそれは無償の愛を利用した有償の憎しみが正当化を装っている姿にすぎないのでしょうか。
しかし、僕は自分の考えにも満足できません。
どうしてこの世で無償の介護をする人々が貧困化しているのだろう?
なぜ無償の愛を与えられる存在を、無償の愛の言葉のために闘ったひとが疲労困憊してしまい、
その愛する与えられる存在を殺すことになったのだろうか?
もしかしたら、格安で介護サービスを行う人々は、
そういった労働者達は来る未来に自分が介護サービスを受けることができなかったとしたら?
海外からの人材自身もそれに見合う対価を得られていなかったとしたら、そしてその競争がより一層、
無償の愛における消費者の価値パニックと価値ギャップを強めたら?
無償の愛の営みに導入された競争原理により、家庭、風俗、介護、医療、
市場が適正化する前に市場そのものが破綻してしまう恐れはないか?
すでに破綻してないか。
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