敗戦を騙す美点 | 空気の意見 

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過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。

 一躍、有名人になった田母神氏を知っていますか。
突如、論文の内容を咎められてしまい、その内容と彼の処分について、
スキャンダルを起こした氏がいろいろ活動しているようだ。

ここでちょっと「公私」について僕の意見のまとめを書いておきます。

「公私の判断を、個人および限定された圏内だけの解釈論だけで左右できるのならば、
 それはつまるところは「私」だけの恣意でしかない」


 さて、「旧軍人の悪口は責められないで、良くいうと騒がれるのはおかしい」という意見を目にします。
まず考えてほしいのは、この国は、「敗戦した」という事実です。

 事実、軍人の派閥闘争、明治憲法の天皇制解釈論争により、結果、致命的に社会を機能停止させ、
外国への宣戦布告に至ったのは、彼ら旧軍人達の政治認識が非常に甘かったせいだ。

 いま見る意見に「謀略にかかった」「A級戦犯はまちがい」だというものがあります。
しかし、満州事変や廬溝橋(ろきょうこう)事件などや、
関東軍、石原や牟田口達、と高級将校または彼らの会派は、謀略を乱用するに躊躇しないところがありました。
それに北一輝と二・二六事件の顛末だけ眺めても、
彼らのいう道義的裁判の要求はその土台からして怪しいものでしかない、
しかも軍人や軍隊が盗みや強請行為を行い、日常社会からきわめて迷惑な存在となっていた。
さらに海軍は軍縮会議で日本にしては充分な内容を得たのにも関わらず、
後には、これでは満足できないと態度を変えるなど、海軍からして次第に危うい方向に進んでいきました。

 彼らのいう「軍人偏見」や「昔の国の美点を見ない」という、非難するためのやりくちを点検しても、
決して彼ら自身が自分で自己肯定できるような内容があるとは思えませんね。
むしろたいして中身のない、過去の解釈論争の延長線上をひとつもでないものでしかないでしょう。


『美点を強調するていどの内容は「論文」とはいえない』

 それで、なぜことさら観念的に美点を強調することしか彼らはできないのでしょう?
ある種の論文ならばすでに『補給戦』『戦略論』『戦略論の原点』などたくさん世にでている。
そして第二次世界大戦の資料だって概ねまとめられている。

 ここで分かってきたことは、彼らがするべき仕事は、
いかに旧軍の意思決定能力と組織が優れていたか、あるいは、
中国と太平洋にまたがった戦略がどのように達成させられたか、
点在する戦場で補給はどの程度機能していたか、を論じることであり、
それらがもしも素晴らしい帰結をもたらすのなら、自然に、旧軍人といえども、
必ずしも評価されなくはないといえるでしょう。

ここにおいて指摘できるのならともかく、
彼らのような単純な、敗戦した旧軍の賛美が、
あくまでも道義的に良いという表面のことだけしか問題にしないならば、
多くの若者達の判断を誤らせることになる。
むしろ美点を強調する程度の仕事しかできないのならそれは知的な仕事でもなんでもない。

 突き詰めるところ、彼らの悪い点は軍国的礼賛というよりも、
論文でうまく軍事活動と軍事により変化する状況の成否を判定できない点にあるし、
それにじっさいのところ、バーナード・クリックのいうように戦争とは
クラウゼヴィッツのいったような「別の手段をもちいた政治の継続」ではなくて、
ただの乱暴な権力の行使であり政治権力の破綻なのだ。
政治をいまだに行っているという前提は消失してしまっているし、
この状態は権力の実行をただ政治そのものだと思い込んでいるだけでしかないでしょう。


『軍事の消える場所』

クリックがハンナ・アレントから援用した考えをさらに進めると、
もしも、政治がその言葉だけ残して消えてしまえる状態があるとすると、
軍事組織というものも、戦闘できる人間と兵器を置いて、霧散してしまう現実の瞬間がある。

このような政治と軍事すら完全に形骸化してしまう場合が現実に起きるとしたら、
冒頭に書いた「公私」の形骸化は少数の個人と組織による身勝手な解釈が起きた場合であり、
そして悲惨な状況がわれわれの社会において現実になる、あるいは、なった、
のだと、僕はそう思えてしまう。

そこでは民衆は戦闘できる人間と兵器に常に脅かされている。
まさに世界中のいま起きている紛争はこのような政治と軍事の消失のせいで起きている。

たとえば携帯電話を持ったからといって僕達がNTTやソフトバンクの社員になれるわけではなく、
同じように銃器を持ったからといって軍人になれるわけでも広義の民兵などになれるわけでもない。
結局は、何かを殺せるか破壊する能力を手にしただけだ。
ましてや安直にテロリストになるわけでもない。

許された政治活動なる行為をしていると叫ぶこういった少数の戦闘者は、
実のところは彼らは政治的なふりをしていてもそうではないし、別に軍事的でもゲリラ的でもないのだ。
自分と兵器に見合うだけの勢力を拡大したいだけともいえる。
彼らはただ自分の能力に見合ったものを要求しているつもりなのだけれども、
政治と軍事の消失の場において、戦闘できる戦闘可能者と兵器というものは、
誤った存在の仕方で社会に立っているだけでしかないうえに、
前提としていた社会手続きすらも形骸化させ、ついには自身の誤った主張の結果、
社会を通して自分自身を二重に形骸化してしまい、
あらゆる観点の道義的責任に自己を晒してしまった。

 つまり戦闘可能者と兵器のつくりだす場とは、
僕達の広範な地球または世界にまたがる、
国際社会の道義あるいはそこに偏在するあらゆる国家の文化的極論に、
いかようにも押し流されてしまう場なのだ。
社会のなかの政治と軍事の消失がこの場を可能とさせている。

それは僕達のうまれた日本がもっとも致命的で深刻な問題を抱えて到達した、場、だったと思う。

この場を、「否社会の場」と呼んでみてもいい。
この場は戦闘可能者により社会と同時に政治と軍事は消失してしまい形骸化しているものの、
少数の者と組織により政治と軍事はあるような存在とされ、同時に、
非常にきまぐれな道徳と道義による要求により、社会は彼らの評価や価値を押し付けられている。
そして形骸化こそしてはいたものの、人間の存在によりかろうじて社会活動が残り、
そのおかげで形骸化しても実体としてなお存在できていた社会ではあるが、
この場にあって、実体社会が完全に崩壊したとき、

彼らを取り巻いていた自己以外の道徳と道義に制限なしに無防備にさらされてしまう場なのだ。

 日本が敗戦したとき発生したのは、複雑な事情はあれども、本質としてはこういうことだったのだろう。 
日本の勝利は他国の人々に一時的に評価と価値を押し付けた。、
それから事態がかわり今度はこの国が敗戦したとき、そしていまでもその影響を受けていることが、
感じられるように、否社会の場により一時的な押し付けが僕らの社会にも及んだのだ。
それは当時の国際社会のあらゆる外国の国々と人々により押し付けられた。
僕らの社会にそうなってしまうだけの歴史があったわけだ。

 だから僕達はこのようにして敗戦したということだ。


『「否社会の場」の充足』

 いま述べたように、僕は、
もはや現代では、単なる道義あるいは愛国や憂国にて過去の歴史を再評価できるとは思っていない。
レポートで、ある時点の社会の美点を展開させて道徳にたどり着くなど、
万歳突撃や集団自決や従軍慰安婦をただ安直に正当化させたいだけでしかないでしょう。
最初から議論を先取りして「すばらしい過去の国と良い軍人」を主張しても、
三島由紀夫のもういちどの繰り返しにしか過ぎない。

 本当に、過去の軍人と軍事行動に、評価すべき点があるならば、
いかに中国と太平洋とインドまでに渡る戦略が達成されたか、
どれだけ補給線は膨大な地域に人員と物資を輸送できたか、
どのようにして戦闘において効果的な戦術を駆使して撤退ないしは進軍できたか、
観念的愛国論だけでは軍事行動の再評価すらできない、人間的美談などもうけっこうだから、
彼らの軍事行動と社会統制について再評価できるのならできるとして、レポートを書いてもらいたいものだ。

  いまでは『補給線』『戦略論の原点』『戦略論』等、多くの再評価が試みられているのに、
論文で若い人たちに訴求できるところが、御先祖様は崇高な道徳心のゆえに大戦を決断されました、
だけではどうしようもないでしょうから。
それとも彼らのいう過去の美点、美徳というものの目的は、
社会を、僕のいう否社会の場にまた巻き込んで、混乱させることなのだろうか。

 いまの僕達の教訓は、
「否社会の場」をもたらす少数の公私の道徳的道義的解釈による押し付けを行う人間に、
僕らの社会の管理を任せるにはとてもじゃないができないということだ。
すべて公開された議論を経なければいけない。
そうでなければ少しずつでもこの場を越えて充足していくことは期待できないでしょう。
内輪の組織では大丈夫だったという言い訳や社会の合意を覆すような、論文でさえない私見の説明を、
公職についたまま個人として垂れ流せるような恣意の強い状態で放置することはいまや危うすぎる。
政治家の「日本は単一民族の社会」だとかという、
歴史と国家認識とは違った古い解釈の押し通しはもう通用しなくなった。
どうしてもやりたいのならさっさと公職から降りて個人で活動すればいいだけの話だ。

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