福田辞任 すべての媒体による人気取り政局 | 空気の意見 

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 安倍、福田、辞任続きとなりました。
これは一政党の選挙対策として立て続けに行われた、首相職及び政治への背信行為ではないでしょうか。
いくら麻生氏が総裁となっても、どうにもならずに、
自民党の硬直した政治のおかげで麻生氏人気があろうとも将来の衆院選の敗北は必死と思えます。

 繰り返しますけれども問題は政府内閣の首相職が、
一政党の選挙対策事情により壟断されていることです。

 福田辞任の結末は、結局、自民党政治と官僚政策の限界を象徴しているのではありませんか。
しかし、麻生氏といえどもよっぽどの辣腕と人気がない限り、どうにもならないでしょうし、
ほぼ敗北は決まっているとしても、いまや、それがどれくらいに抑えられるかが問題なのでしょう。

 はっきりいえば国民にはいま政治になにが起こっているのか掴みにくい。
なぜかといえば、政策は官僚がもとからつくっているからであり、
政治家は表面的に動いても文書作成の時点では概ね丸投げしている、
それでも政治家が優れていればよいのですが、
一部の、モラルの程度はわかりませんが、政治家と学者と官僚と企業によって、
裏のほうで政策はつくられているのではないか。
民主党の政策ですらどうしようもなく空想的なところがある。
さらに、この背信行為はあらゆるところに広がっているのではないでしょうか。

政策や法案の文書を実際に民衆が読みこなしてチェックしない限りは、
国会あるいはTVの政治ショーを視聴したところでほとんど無意味になっている。
すでに政治はパワーゲームの如何で、どうやって大勢を得て、それらしい政策を語るかでしかないのでは?

 日本の政治は民衆の力を背景にしているというよりも、
国会と政策には独自な政治力学があり、選挙を根拠にするが政策の舞台は、
官僚の関係した独裁的な運営を前提になりたっている。文民統治とは少し違う。
官僚は政治家と一定の距離を保つというよりも、むしろ、積極的にお互いに話し合って、
自己の権益を確保しあってきた。
その証拠のひとつは、首相不在あるいは倒閣に等しい事態でも政治にとっては構わない、
という馬鹿げた政府内閣と国会の無責任さにあります。

こういった政治の無責任さは、小沢氏の無投票三選にも等しく現れています。
国会や選挙よりも大勢、政府内閣よりも政党の利。というわけです。

 いわば我々の政治は、不倒の官僚政治のなかにあり、その傾向は、
日本の省庁と中央銀行に、はっきり見て取れませんか。
彼らは、その政治における官僚独立イデオロギーのなかで、
自分達の独立した、しかも、政策文書ときわめて曖昧なレトリックを駆使して政治闘争を行い、
日本の政治政策と金融政策を官僚主義のなかで運営しているわけです。

こういった状況がかたまってきたのも、政治家と民衆に責任がある。
民衆が育てない政治は、政治家か官僚に、奪われる政治でしかない、というわけです。

最大の問題は、優秀な官僚と優秀な政治家だけでは不足だということであり、
とりあえず、優秀ということは少なくとも受験勉強がどうだということではなく、
ある何かのための政策をつくれるかどうかだ、
そう考えると民衆自身にそういった政策力があるのか?

 そういった専門性は大学にしかない。

大衆と大学は、より密着して関連して、
前提として彼ら自身のために行われる
「一党独裁、派閥政治、官僚独立イデオロギー」をある程度解体する。

 つまり、学者による大衆のための政治政策を実現しなくてはならないのでは?
はっきりしていることは、政治思想などはすでにある程度煮詰まっているのであり、
日本のモラルと政治に適合するならどうでもいい。

けれども経済政策における財政と金融は、金融にいたっては日銀官僚の手の内だ。
ここで疑問を呈せば、それが真に学問的に正しいのなら、
それを誰が運営して実現しようがたいした問題ではないでしょう。

しかし、なにゆえ、例えば、その日銀政策とやらが、日銀の職員に独占されている必要があるのか?
彼らは学問を参照しているけれども彼らは学問の徒ではなく、官僚だ。
学問の一派ですらない。
学問であれば日銀金融政策イデオロギーとでも名づけて研究すればいい、
でもこの主義の致命的欠点は彼らの政策は政策であって学問とは言い難いことだ。
真に学問であれば、その内容が豊富か以前に、誰が利用し批判し、さらに使用しなくとも自由だ。
官僚政策は、そういった学問における競争と比較と分析と研究には耐えられない。
ある優秀さは他に誰かが存在してはじめて際立つ、
でも彼らは同域同格次元でそれを証明せず、どうでもよい悪質と自分を対置して優秀であると、
策術を使って、自己の優秀さを宣伝しているだけだ。

いかに官僚が優秀であってもそれは学問を参照できる優秀であって、
彼らの似非学問自体に「優秀さ」はない、
その証拠は、官僚が政策立案の機会をできるだけ自分の手元から離れないようにしていること自体が証拠だ。
もし彼らの行っていることが学問として極めて優秀なら、
ある理論とその提唱者と実行する者が完全に一致している必要はない。
それは民主的な政府と学者の関係でもあるでしょう。
まさしくここにおいて、官僚の手による運営の前提により官僚が優秀だと述べる人間は、
官僚運営の独善について反論不可能に陥るのではないでしょうか?

官僚の理論は決して純粋な学問ではない。また学問かどうかも怪しい。
なぜなら学問は自然科学も社会科学もいまだ解決していないことがたくさんあるからです。

学問ですら失敗をすることがあるのに学問からの理論ではない理論に身を委ねるのは、
まるで宇宙と上空を間違えるようなものではないでしょうか?
そして政治家と大衆はパラシュート無しで地上に降下しているように思えます。

 ところで本来なら大衆と学者のなかを取り持つはずのマス・メディアが視聴率主義に陥り、
両者の有意義なマス・コミュニケーションを消失させている。
彼らは、政治家と官僚とスポンサー企業にぶらさがっている。
彼らもまた一定の距離を設けず、積極的に各々に関係してジャーナリズムが地に落ちている。
彼ら自身がすでに、営利団体、営利主義、
それは健全である状態というよりも、
政治闘争に自己を不用意に近づけて、政治闘争の情報のお裾分けを待っている。
仕事の機動性を理由に、政治に、特権的な取材体制を彼らだけに約束させ提供させている。
警察機構ともこういった関係性があることは明白だ。

 こういった馬鹿げた各立場による政治闘争と関係性とその密着取材が大衆に重要な情報を伝えない。
私達が始終気にさせられているのは、
見掛け倒しの政策論争と誰が政争に勝つか、といったことであり、
それは本当の政策と議論にはまったく繋がらない政治ショーだ。
残念なことに大学も似たような政治茶番劇を隠し持っている。

重ねて残念なことに、麻生氏も小沢氏も、現時点ではこういった状況を是正できないようにしかみえないことだ。
なぜなら民主党が持っている究極的な目標は民主党のほぼ一党独裁型政治であり、
それなら自民党がやっていても構わないし政権が民主党となっても政治の本質は同じものになる。
小沢氏と民主党の採用している選挙戦術がそれを裏付けている。

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