いろいろ読書しているうちに安岡正篤先生の本に手がのびたところです。
どんな人でも自分の欠点を他人から「お前はここがダメだ!」と面罵されれば、これは当然、怒る。
もちろん良いところだってあるに違いないと思うものでありまして、
逆に、口うるさく僻するだけで、その苗たる子の大きさもわからずに接し方を間違えてしまう。
もしも万事がこうだと「ゲーム脳」なる科学的実証も曖昧な論、
脳の一部が活動を停めてしまう、こういったことを信じてしまう親もでてきてしまう。
あなたの精神は狂っていないのですか? あなたの脳は普段ちょっとしか活発ではないでしょう?
あなたは、毎日、脳の活発さを機械で計測しているのですか、
この現代において他人を狂わせておいて、自分はそうではないとどうやって厚かましくもいいはれるのか。
「 ――仁人というのは単に人を愛するばかりではない。人を悪む場合もある。
仁人にしてはじめて人を愛し、又悪むことが出来る。普通の人間は私情であるが、
真に善しとし悪しとすることは仁人にして出来る。――」(引用文)
自分でもよくわからないような字面だけの西洋的キリスト的博愛精神を持ち出したり、
これはお前のためだから厳しく言うのだとか、禅で警策を用いるからといってこれを悪戯に真似て、
あるいは民法で体罰がある程度認められているからといって、口や拳で暴力を振るう。
多くの体罰信仰者達がなぜ暴力を振るうかといえば、
それが結果として精神注入になるからという理屈ですが、
これのもうひとつの難は、それに耐えられない者は「ダメ」なヤツだとまとめて葬り去るところです。
もちろんどこかでこういったことも成功するんでしょう。しかし成功しなければ闇に葬って相手にしない。
「この軟弱者が!」という傾向がある。
しかし、暴力を受ければ暴力が芽生える。
行き過ぎて、子が親を殺すと精神異常を安直に疑う。で、実際、学問とやらのほうでも「然り」と叫ぶ。
子に、情も薄く不条理な要求をしていれば、
これにその子への暴力や本人の苦悩や神経衰弱などが重なれば、子も親を刺す。
他人の欠点をあげつらうだけではちっとも仁人にはならない。博愛にも精神注入にもならない。
親は子に対して欲深い。
ある学閥を目指させてどうしてもそこに押し込みたい、これこそ欲深いことでしょう。
誰かに忠告をする資格があるのか、と言い出すと誰にもそんな資格はなくなってしまう。
だから口をだしてしまう、親子ならなおさらだ。
けれども、ここに、非常に立派なデキル子が居たとして、
親のあなたにこう言ったとしたらどうでしょうか、
「あなた達両親が死んでくれるかすれば、自分はあなた達より立派な叔父夫婦に面倒を見てもらえます。
私のために、ここはひとつ、彼らより劣る親であるあなた達は居なくなってくれるべきではないでしょうか?」
子のために自分を登録番号みたいに抹消できますか。
逆に、自分にとってこの親では不足だと言われたらどうしますか? 怒りますか。
情もなく口うるさくやったところでこういう帰結になってしまう。
「ダメな子」が悪いのか「ダメな親」が悪いのか、はっきりさせようというわけです。
でもなかなかこうならないのは子が必死に耐えているからでしょう。
やはり身に降りかかる暴力や要求に耐えているわけです。
別に、親もいろいろ勧めて、子も応えて、志望校に落第してしまう。
親もどうしてよいのかうろたえてしまい、子も神経衰弱のように元気をみるみるうちになくす。
両者とも目指す場所は設定していてもそれだけで、
肝心な生涯の身の落ちどころを見失っていれば、急に心細くなるか安心を失ってしまう。
そこで勉強がうまくいっても、
子に「俺の人生を台無しにしたんだから、これからは俺のいうことをきいてもらう!」
などと親が要求されてしまい困り果てる。
俺の人生を台無しにしたのだから、親に感謝もない全部俺の努力の結果じゃないか、
親を養うのも馬鹿らしい、自分で勝手にしたらどうだ、
親がこれぐらいのことを俺のためにしてもまったく当然だ、
だって俺はあんたたちの希望を叶えてやったんだから。
将来を心配しなくてよくなっただろう、ひとつ俺のためにでも処女を見繕って来い、
なにしろ恋愛すらできなかったんだ・・・・・・、勉強には邪魔だと思ってすべて断ったんだ、
この償いは親にしてもらうぞ・・・・・・。
情とコミュニケーションも足りないうちに鞭を打てばよからぬことが起きます。
馬体のよい競走馬でも脚が折れれば生涯にかかわる怪我となりそれきり死の道を辿ることになる。
子に親は自分のことを考えずに損得勘定だけでやれといっている、
と疑われているのに気づかずに、それをどうすることもしないで、子に逆襲されても子を恨めますか。
子をつくったのは親ですよ。
「親がもうちょっと学問なりを勧めてくれればよかったなあ」というのと
「親に人生の青春の時期をまるまる奪われたな」というのでは、恨みの度合いがまったく違います。
なんだかんだいってある程度の大学を出て、院なり、社会なりに出て己が充実していれば、
子は自由にさせていれば適当に遊びも学びもするものですし、割と帳尻あわせがとれたものだ、
と大抵は納得するし、自分でそこそこの馬鹿をやっていればそこまで親を恨みません。
子に対して責任を取りたいなら親と子というパートナーとして相談してはどうですか。
家族会議もまあ悪くないでしょうけれども、大事なことは、
勉強と進路と遊びは子に考えさせるようにして最終的に子に自分で決断させることです。
なにより、勉強させる前に、前提として親が、本の読み方なり速読なり、料理やアウトドアやサバイバル、
音楽や絵心や散歩、瞑想して肉体や周囲に神経を集中させて体を神経衰弱から回復させる方法など、
親が子と交わりながら教えなければいけないことはたくさんあります。
これらは心を安心させる方法のひとつひとつというわけです。
これらでもダメならひとは勝手に求めてどこかに進むわけですし、求める=勉強、です。
ただただ、「勉強=学歴」のひとは、何が起ころうとも仕方ありません、例えば子に刺されるとか。
そういった親子はそんなに珍しくなくなってきているようです。
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